TPPは稲作農業に大きな影響がある。
農水省はコメについて、政府が管理する貿易制度以外の「輸入増加は見込みがたい」と判断。日本はTPPで、米国とオーストラリアに政府管理の下で年7万8400トンの無税の輸入枠を新設するが、原則として1キログラムあたり341円の関税をかける現行制度を維持する。このため輸入枠外は想定していない。ただ米豪産のコメが流入してくることで、国内流通量が増えて「国産米全体の価格水準が下落することも懸念される」との見解を示した。政府は、輸入した分と同じ量のコメを農家から買い上げて備蓄米にする検討を進める。――――以上が稲作農家が信じていない農水省の見解である。
農水省が影響は少ないと予測したということは、影響は甚大と考えるのが農家感覚である。今まで繰り返し農水の予測の逆逆に動いてきた結果が、今の日本農業である。農水の役人は自分の息子を稲作農家になりたいと言い出したら、喜ぶだろうか。所得倍を想定を信じているだろうか。TPPも影響はないから大いにやれというだろうか。20年後には日本の田んぼは半減している。従事者数で言えば、10分の一になっている。残念なことにこの予測は外れないだろう。TTPが締結されてからも、いろいろ圧力による変更が起こってくる。調整の結果稲作は追い込まれるだろうと考えておいた方が良い。それでも大型の稲作農業が北海道東北などで残る。一方、自給的稲作が細々と残る。予測の根拠は日本の稲作の労働力の問題である。和解新規就農者が出ない原因は、開かれた希望が見えないからである。稲作は世界への輸出産業には間違ってもならない。
こんな状況だからこそ伝統農業の意味をますます深め、考えたいと思う。人間が生きるということは、一人一人の人生を全うするということだろう。金もうけをするためにだけ生きる人もいるだろうが、自分の人生の充実ということを目指す人も必ずいる。人間が生きるという、生な感触が伝統農業の中にある。循環農業と言ってもいい。東洋4000年の農業と言ってもいい。江戸時代の百姓の農業と言ってもいい。何かのための仕事ではなく、生きる暮らしのありようとしての、農業である。食糧の確保は一日一時間の労働で可能という農業である。どこまで社会が拝金主義に傾くとも、一人の人間が素朴に生きてゆくということに立ち返れば、むしろ良い時代が来るのかもしれない。暮らしの可能な土地に人が住んでいないということになる。治せば住める家もあるかもしれない。田んぼや畑もあるかもしれない。江戸時代とは比べ物にならない、機械力もあるし、品種の改良もある。江戸時代の人ほど体力はないだろうが、やる気になればたいていの人にやれることだ。
TTPが成立するということは、大国がより大国になるということだ。弱者は大国への奉仕者になる。EUが結局のところドイツの一人勝ちになることを見ればわかる。江戸時代の班ごとの独立経済が、国家として一つの経済になった時に、結局は東京が強くなる。地方創生とか、一億総活躍とか、具体策のない掛け声を叫ぶのは、現実社会の問題点がそこにあるということだろう。3本の矢も新3本の矢も、要するに掛け声だ。安倍政権の3年間で実質経済は良くなったわけではない。企業収益は伸びて、内部留保の財産も増えた。しかし、その分格差はさらに拡大し、学童の貧困状態は良いり大変なことになっている。それはアメリカも同じことである。成熟社会において、経済先進国がどのような安定的状況を考えることができるかが、カギになっている。
問題は、一時間自分の食糧のために時間を割いて、あと何をするかに尽きる。自分の人生の充実にあとの23時間を費やせるかである。今の時代の流れはその時間の使い道が、消費文化に巻き込まれている。というより巻き込もうと社会全体が押し寄せてくる。企業から見た消費者としての存在である。拝金主義では人間を消費者として見る。お金を生み出す材料として、人間をとらえる。創造者ではなく、一消費者である。どうやってお金を使わせるかばかりを考える。無意識に生きているれば、消費者として、人生を無駄遣いさせられる。人口の減少を、企業の利益の減少ととらえる感覚である。孤立して生きる強さが必要である。と同時に同じ志のある者同士の連帯が必要である。