独善について
私は独善的である。間違いなく自分勝手である。そんなことはこのブログを読めば一目瞭然である。むしろ独善でありたいと考えている。とことん独善でありたいと考えている。たぶん絵を描くということはそういうことなのだと思う。絵を工芸と考えれば、独善はだめだ。客観的な価値を模索することになる。これから絵が残ってゆくとしたら、そうした工芸的な傾向の商品絵画と、日記のような私絵画に分かれてゆくのだろうと、と考えている。自分の感じていることや、考えていることを明確にするためには公開する必要がある。自分のつぶやきや思い付きを深めるためには、発表することは大切である。表現してみて初めて自己確認できるということになる。だまって思っているだけでは自分の独善ですら確認ができない。だから、どれほど歪んでいようとおかしなものであろうと、自分が感じ、考えていることを描くのが私絵画だ。
しかし、そこに問題が生じるのは、私絵画と商品絵画が、混同されて議論されるからである。部屋に飾ることのできないような絵でも絵画はある。美術館に置いておくようなと言えばいいのかもしれないが、美しいものを書くのが絵だとは当然言えない。見て嫌になるような絵を描いて、自己主張をしようという場合もある。自分の心の奥底を描いたら、えも言われぬ嫌なものが立ち現れるということは、ありがちのことでもある。芸術としての絵画の意味は、私絵画の時代である。一方に商品絵画としての工芸絵画は全盛である。有るだけでなくむしろそれが主流に見えるが、それはいつの時代もそんなものだと思う。絵画を投資対象の商品と見た時代すらあった。値上がり期待で絵を買い漁るような馬鹿げたバブルが起きたことすらあった。時代に取り残され受け入れられなかったから、独善になったという見方もあるだろう。それも別段否定しない。どこかでまかり間違って評価されていたら、ひたすら商品絵画を描いていたかもしれない。独善の私が、間違っても評価されはしないが。
ゴッホの絵が汚いものとして、受け入れられなかったということはよくわかる。世間の美を無視した。自分の美に固執しているのに、その自覚がなかった。世間というものに距離がある人だったのだ。絵に生きるということは、世間と距離が出来てゆく。自分の心の中ばかり探っているのだから、一般的な価値観というものを忘れてゆく。つまり独善であることを大切にせざる得ない。そしてその独善であるがゆえに真実に近づいていると考えている。世間の物の見方や考え方を無視するがために、自分なりの世界が形成できると考える。となると孤立してゆくかと言えば、類は友を呼ぶというか、仲間は増えてゆく。ゴッホがゴーギャンンと仲たがいして孤立してしまったのは、ゴッホの手紙に示された心の奥底が隠されていたからではないか。変人ゴッホだけが世間に対してしまったのだろう。ゴッホがどれほど世間の一人になりたかったのか。そういうことがゴッホの私絵画に描かれている。
ゴッホは遥か時代の先に生きていたので、自分がやっていることへの自覚がなかった。立派な美術館に飾られるような価値ある絵画を描いて、価値ある自分を確認したかった。評価されないことの意味を分からないかった。私絵画である自覚がないところに、苦しみがあった。悲しい絵である。しかし、今その悲しさが人の心を打つ。私絵画の仲間だからだ。独善のゴッホであったから、心の奥底を語れたのだろう。商品経済がすべての価値に優先される時代になっている。商品でないものはすたれてゆく。しかし、この手に負えない私絵画は商品ではないにもかかわらず、世間から外れて、そうした仲間同士で類が朋を呼びながら、絵を描き続けるだろう。