「歴女」「城ガール」

   

千曲川の眺め 中盤全紙 どんどん描いて行くと、こんな風に変わってゆく。何に従って変わって行くのかは良く分らないのだが、不思議に変化して行く。

秀吉軍に対して、抗戦か降伏かで意見が分かれたことが源となる「小田原評定」は北条氏の比較的民主的な領民統治を表している。久野ではこれに加え、「久野寄り合い」という言葉がある。地域に置いて何かを決める際に行われる徹底した話し合いのことである。明治期以前の日本の地域の合議の仕方をもう一度考えてみる必要がある。明治政府によって、江戸時代以前の日本の農民像がまるで奴隷の様なイメージが作られている。これに目を曇らされると、江戸時代の暮らしを想像することが出来ないことに成る。対馬だったと思うのだが、昭和初期に古文書の調査をする際に、古文書の借り出しをお願いする話がある。これを地域で相談することになった。すると、津々浦々から、泊りがけで人が集まり、全員が一致するまで相談を重ねたと言う。地域の権力者や、有力者が決めてしまい押し付ける。と言うようなことは日本の地域には実は少なかったのだ。それは二宮尊徳の烏山藩の立て直しを読んでもそういう場面がある。

農民と言う存在の自主的な行動がなければ、地域と言うものが成り立たないものだったからである。それは、一次産業を中心に地域の運営が行われていれば、その様に成らざる得ないものあ。働く者の意思は軽視できないのだ。私の自給体験を通しても、農民は税金なしに暮らすとすれば、豊かなものなのだ。農業技術さえ持っていれば、どこの土地でも生きて行くことが出来る存在だと実感した。特に、稲作に置いては、地域の協力が不可欠で、陰日向なく協力し合う体制が無ければ、良い耕作はできない。そうした地域の良好な人間関係を維持することが、地域運営の重要な要素に成る。その為には、直接働く人を隷属させる様な、農奴の様なものとして扱うことなど、何の益もないことだったのだ。一人ひとりが自主的に考え、判断する能力が高いということが、何より生産性を上げる要因なのだ。稲作と言うものは、勤勉さと、観察能力で、収量が倍も違ってくる。自主性を摘み取る等、愚かなことだった。

歴女とか、城ガールとか言われている。小田原城も最近訪れる人が増えているそうだ。悪いことではないのだが、それは歴史への入り口であるということを、考えてもらいたいものだ。秀吉とか、北条氏とか言うものは、歴史の肩書の様なもので、本当はその背景に存在する、無数の庶民、常民と言うものを見なければならない。関ヶ原の戦いが何年であったというようなことは、日本史の試験の悪い所で、そんなことはおおよそ500年前位で大した意味はない。むしろ、当時の人口が、1500万人と推測されるということは重要なことに成る。驚く事に今の8,5分の一しか人口が無い社会なのだ。そこから当時の日本人の本当の暮らしと言うものを推し量ることが出来る。食糧生産はどういうことに成っていたのか。これから人口減少に入るとして、日本と言う国土の適正人口と言うものはどのくらいにあるのか。もし100%の自給になるためには、どのくらいの耕地面積が必要なのか。こういうことを歴史から学ぶ必要がある。そういう、歴史女子に登場してもらいたい。むしろそうした観点こそ女性の得意分野ではないか。

また、明治期の富国強兵政策が、いかに日本人の暮らしを歪めていったかということを考えなければ、安倍政権の国際競争力一辺倒の、市場原理主義と言われるものがいかに危ういものかは分からないはずだ。日々の暮らしが実は、必要な歴史である。それが民俗学と言うものだ。地域に残る風俗をたどることで、何百年この場所で暮らしてきた、常民の思いが見えてくる。そのことに城ガールも目を開いてもらいたいものだ。小田原城よりも、元治の溜め池に目を向けてもらいたい。坊所山の水路トンネルに目を向けてもらいたい。和留沢のかまど石の石切り場に目を向けてみてほしい。酒匂川流域の水車の研究など、誰かやっているのだろうか。御殿様を研究することより、足柄平野の水車の研究の方が大切なはずだ。権力者は権力者が好きだ。行政はついつい、北条氏を持ち上げる。そうして置けば苦情が出にくいと言うことに成る。しかし、これから本当に必要になるのは、お城ではないということを、城ガールの人には考えてもらいたい。

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