死刑廃止について
2013年に窃盗事件で検挙された13万8947人のうち48%が再犯者だったことが、14日公表の2014年版犯罪白書で分かった。
以前死刑廃止には問題があるという事を書いた。そのとき死刑は廃止すべきという意見を頂いた。今も死刑を廃止すべきとは考えておりませんが、その後も死刑については、様々な意見に目を留めてきた。又無期懲役刑についても考えてみなければならなかった。但し、無期懲役刑についてはこのホームページに分かり易く解説してあり、世間に誤解があるようだという事も分かる。その上でもう少し死刑廃止について考えてみたいと思う。刑罰はどちらかと言えば、少しづつ重罪化しているというのが、判決の最近の傾向だ。それは、想定外と言えるのかもしれない。裁判員制度の判決結果が影響している可能性がある。一般的な市民感情が凶悪犯罪の厳罰化を望んでいる傾向という事だろう。裁判員裁判の前例事例より、重い刑罰判決が出るという事になる。
一般に、複数の殺人を犯した成人が、死刑と言う事になっている。18歳の殺人犯はどうなるかという事は、配慮の範囲であるようだ。最近では17歳の少年が無期懲役刑を受けている。流れとしては少年法の改定でも、厳罰化、低年齢化への変更が繰り返されている。処罰よりも保護と教育に主眼を置いてきた傾向が、変わりつつある。こうなった背景の一つは、裁判員裁判がある事だけは確かだ。裁判を一般の社会常識に合わせようとしたら、重罰化の結果になったという事に見えるが、むしろ重罰化への道筋を付けるために、裁判員裁判を行ったとも言える。ではなぜ重罪になるかと言えば、刑務所と言う所の懲役が、罰であって、矯正ではなくなっているという事だろう。本来刑務所は矯正施設の一つである。所が、冒頭の記事のように、窃盗犯の半数が再犯者だったというのでは、矯正が機能していないといことだろう。矯正が機能しないのであれば、刑罰的意味を重く見て、重罪化するしかないという事になる。
こうした流れの中で、裁判員裁判が悪用されたと思われる。何故、裁判員裁判が議論はあったにもかかわらず、強行されたかと言えば、「刑事系裁判官たちが、民事系に対して長らく劣勢にあった刑事系裁判官の基盤を再び強化し、同時に人事権を掌握しようとしたことにある 。」 という推察を元裁判官の瀬木比呂志さん(明治大学法科大学院教授)が書かれている。裁判官たちの権力闘争の中で、裁判員裁判によって、刑事裁判というものへ社会の視線を向けようという作戦だというのだ。こうして、刑事事件の重罪化への道筋と言うものが開かれたと思う。裁判所の判断が、前例主義であったものを、無理やり重い方に動かす事が出来たわけだ。だから弁護士会などが、裁判所の閉鎖的体質を改善するためには、裁判員裁判が必要と主張していたことが、民の声の導入によって、悪用されたと言えるのではないか。
死刑と出所の無い終身刑とどちらが人道的でないのだろう。そして殺人という罪をどのように償う事が出来るのかである。恩讐の彼方では、隧道を掘るという人の為に生きることで、罪を償おうとする。生涯を人道に生きると言う刑罰はありうるのか。殺人をおかしたが、絵が上手いという事で許されたスペインの昔の絵描きもいる。帝銀事件の犯人は冤罪ではないかと死ぬまで再審請求がされたが、獄中で絵を描いていた。確かに、掃除当番が学校の罰則であったりする。ある組織の田んぼを協力したら、罰則で田んぼに来させられたと聞いて、がっかりした事があった。相変わらず、結論が出た訳ではないが、死刑の問題は、刑罰全体の問題でもある。矯正と言う事が機能していないことは確かだ。矯正に取り入れて欲しいのは、犬の訓練士をしてもらう事ではないかと思っている。盲導犬や、介助犬を、警察犬を刑務所で訓練してもらう。犬には人間を矯正する力があると思うからだ。