農家所得は倍増したか。
月光の海 中判全紙 これは震災後絵が描けなくなって、だいぶ経ってやっと描けた海の絵だ。鎮魂の気持ちである。
忘れもしないが、安倍自民党によると、農家の所得は倍増するはずだった。大規模化し、国際競争力のある農業を目指せば、稲作農家は所得が倍増するはずだった。所が2年経ってどうだろうか。今年の秋の米価は倍増どころか、下落が著しい。ここまで下がれば、国際競争力は出てくるかもしれないと、皮肉に思うほどだ。政府を方針を信じて転換した大型稲作農家ほど、当ての外れてひどい状況である。赤字が大型化しただけの結果になっている。TPPどころかその前に日本の稲作農家は壊滅の危機が切迫している。兼業農家をつぶして、大型専業農家を作るという事が、政府の方針の様であった。民主党の戸別補償が小さな農家の温存をして、農地の集約化を阻害していると盛んに言われた。所が、現状どうだろうか。むしろ政府に従わず、細々と小さい農家としてやっている人のほうが、水田の維持の可能性を持っているように思えてならない。農家所得は倍増等どうやって実現できるというのだろうか。いつになれば農家所得は倍になるのだろう。
農業問題を考える時には、稲作農業と、野菜や果樹農業、そして畜産。この3部門に分けて考える必要がある。都合良くリンゴの輸出の話を持ち出して、稲作も同じはずだという論理はすでに通用しない。自動車と和紙の輸出を同等に考えても無駄なことと同じである。稲作には稲作の事情がある。稲作については、国際競争力の前に、2つの事を考えなくてはならない。一つは日本の国柄である。日本人というものを作り出した、日本の自然と、水土を大切にしたいという、美しい国、瑞穂の国論である。もう一つが、食料の安全保障論である。需要が落ちてきたとはいえ、やはり日本の基幹食料は、お米である。一定量のお米を確保しておく事は国の安定のために必要なことである。そんな事はどうでもいいというのであれば、考えても仕方が無いのであるが、自民党政府においても、この2点への考え方はそうは違いはないと思っている。だから、何故具体案がずれてしまうのかを考えたい。
再任された西川農水大臣によると、稲作も国際競争力も可能だ。アメリカにもお米の輸出が出来ると、主張している。誇張しているのではない。そういう持論の人なのだ。そういう人が、TPP担当から、農水大臣になった。政府の意図は明らかだろう。政府の考える稲作の、国際競争力をぜひ聴きたいところだが、そのような構想や試算はどこにも示されてはいない。しかし、なんとなく政府は、稲作も大規模化して、機械農業を行えば、国際競争力のある稲作になる。こんな曖昧なことを考えている可能性がある。西川大臣の主張を聞いていると、お米でも高級なブランド米なら、アメリカのお米に対抗できるという話である。そうした、高級ブランド米は、大規模機械農業では無理だ。確かに美味しいお米は付加価値が高いが、それだけの手間暇をかけた農法になる。場所も魚沼産というように限定されるし、作る技術力の問題も出てくる。どんな製品でも、大量生産では高品質と言う事は困難である。ロールスロイスとトヨタの車では、作り方も売り方も違う。農業を考える時にも、細かく頭を巡らせなければダメだ。
稲作を残すためには、あらゆる手段が必要である。大規模も良い。小規模も良い。飼料米も良い。燃料米すら認めようではないか。ただ、漠然とではダメで、戦略が必要である。目的手段は多種多様である事の方が生き残れる。その目的は、瑞穂の国を残そうという事だ。希望の無い所得の倍増ではない。田んぼがあるという事の価値は、究めて大きいものだ。このことを合意できないとするなら、日本は農業をやめるという事になる。どれほど悲惨な事になるのか。あの福島原発事故で、耕作をやめた地域を見ればよく分かる事だ。風景が変わるという事は、人間に大変な影響がある。美しい国土を作るという意味は、人間を作る上で大切な要素である。良い人間が産まれて来なくなれば、国際競争力どころではない。コンクリートでできた都会では、残念ながら人間の、特に日本人の成長は難しい。豊かな自然の環境によって、はぐくまれる人間の情緒は生きる上で、とても奥深い豊かさを育てる。それが日本の国力の基本ではないだろうか。