水彩画の相互批評

   

川辺の木 10号 何故かこの木に惹かれるところがあった。それはどういうことなのだろう。目の前にあるものに、惹きつけられてしまうことがある。不思議なものを発している。そう見える。見えるのは自分の思いこみなのか、特別の何かなのか。

絵を描く者の内、才能がそれほどでもない者は、絵の批評も試みるべきだと考えている。天才は別である。ところが、大半の絵を描く者は、人の絵に関心がない。私絵画に於いては、自己探求を続けるのだから、自分の絵が何であるのかを、あらゆる能力を磨いて、進め、深めなくてはならない。人の話を聞きたくない、というのも絵を描く人の大半だと思う。自慢したい、褒めてもらいたい、という人はいくらでもいるが、問題点を指摘してもらいたいという人が実に少ない。水彩人というグループを始めた主旨はそこにあった。だから規約を作る時にさえ、批評会をやるということまで決めた。ところが最近同人間での互いの絵についての批評が控えられる傾向が出てきている。これはグループが大きくなり、公募展化して、あれこれ、配慮が必要になっているということでもある。本気の批評は根底に人間としての信頼がなくてはできない。人を批評するということは、結局のところ自分に受け入れる心があるのかが問われる。

自分の殻に閉じこもらない。私絵画と名付けられるように現代の絵画は、個人的なものになっている。社会的存在としての意味が薄れている。全く個別な意味を探る以外にない。特殊な学問の世界と似ている。世間一般では、イトヨの分類法などどうでもいい訳だが、特定の人にはそれに生涯をかける価値がある訳だ。イトヨの分類学でも、先に進むためには学会があり、研究の討議が行われる。私絵画を進めるためには、むしろ他者との討議が不可欠になってくる。そうしないと、絵が独善に成る。勝手にしろという絵になる。それを乗り越えようというのが水彩人ではなかったのか。何故相互批評が出来なくなるかと言えば、水彩人という絵画研究グループから、公募団体に成ったからである。しかし、本来の公募団体は、自分の絵を研鑽するための組織であったはずだ。組織化され、階級が生まれ、意見が言えない組織に成る。水彩人は常に、自己研鑽の場として機能しなければ意味がない。世間で認められる為の、手段としての公募団体ではない。

他人の絵を批評するということは、自分に返ってくるということである。人の絵を真剣に見る。これは自己確認の為に、とても大切なことだと考えている。私の絵がここまで変わってこれたと自分で考えられるのは、水彩人のおかげである。仲間も私の絵を真剣に見てくれたし、私も本気で仲間の絵を見たからである。本気で見るというのは何も、美術評論家のように見るということではない。客観的にみると言うのでもない。自分が描くとしたらどうかという見方である。根底に信頼関係があり、本気で互いの絵を見る。絵描きが人の絵を見るときに自分ならこうはしない。自分には到底ここまでは描けない。そういう意見以外にないのだろう。多くの意見は、好きだ。とか、嫌いだ。とか、ここ止まりである。そういう意見が無意味とは思わないが、何故嫌いなのか。何故好きなのか。そこから先を絵を描く者として、考え、感じ、意見として発言する。発言することで、自分の考えている絵画とは何か、ということが問われていく。だから、意見というものは、公に発言する必要がある。内々で言葉を交わす以上に、責任が生ずるということではないか。それだけ発言に責任を持つということである。だから、意見を発言することで、自分が傷付き、気付くことになる。

絵を描く者は実際に自分の絵で、相互批評の成果を示さなくてはならない。そうでなければ自己矛盾である。私は果たしてどうであろうか。10回展の画集の絵と、15回展の絵とを較べると、変化は確かにある。この変化が水彩人に参加してきた成果だと自分では思っている。もちろんこの変化は、衰退なのかもわからない。先日そのことを水彩人の仲間に話したら、「へー、、、変わっていないでしょう。」と言われた。残念ながら、人の絵をほとんど見ていない人も多い。絵を描く人というのは他人の絵に対して関心が無い。だから、これを打ち破らなくてはならないというのが、水彩人の原点であったはずだ。それが無くなれば、水彩人を続ける意味が無くなる。原点に戻り、本当の相互批評を再開しなければならない。このままでは、ありきたりの公募団体ということに成りかねない。会の中に定例的な絵を持ち寄る研究会を作るべきではないだろうか。

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