沢山絵を描いている。
並べてある絵。
正面。
描いている場所から
絵をすごく描いている。どういう訳なのか。自分でもわからないのだが、50枚くらいを一気に描いている。20枚くらいが出来た。筆触と色のことを考えながら試している。同じ場所を色で描いてみたり、色を殺してみたり。筆触だけを考えながら描いてみたり。色々考えていても、絵はやってみなければわからないことばかり出てくる。見ているという感じを、筆触ではどう表すものなのか。目で見ているものには、線のようなものはない。見ている状態を表すのに、ないものを線に置き換えることになる。色だってそうだ。青い空と、青い海を描くのに、青を使い、海の青に近づけてみたところで、見ているようにはまったくならない。空間が違うのだから当然のことだ。それが黒い海と、黒い空にしたとたんに、このように見えていると、感じ始めることがある。あー、まったくそういう訳のわからないことが絵を描いているということだ。絵には限りない面白さがある。
私は、見ている世界を描いている。見ているという自己存在、自分の中の何ものかを描いている。少しややこしいのだが、朝やけを見て、ああ美しいと。余りの美しさに捉えられてしまうと、心や身体が反応する。嬉しくなって、興奮して手から汗が出ていたりする。頭の中で、さらに思い描くとか、反芻するとか、記憶と出会うとか。様々な回路を経ながら、身体がしびれて動けないような興奮にまで至ることがある。それは何故だろうか。美しいということは、絵だから難しいが、火を見て興奮するとか、高いところに立って恐怖にとらわれ足がすくむとか。つまり、目で見ているということは、身体的な反応を呼ぶ。その背景にあるのは、多くは経験と、想像力であろう。本能的なものもあるかもしれない。私が朝日を見て美しいということには、今日も暖かくなるから、鶏が卵を産んでくれるぞ。蒔いた種も芽を出すかもしれない。干してある大豆も今日は乾くだろう。そういうことを含めて、美しいということになる。
この大地、大自然に感謝したくなるような、自然の一員である自覚をしたようなありがたさである。絵を描くということは、そういう自分の全体性を描くということでもある。朝やけの空の色の微妙さに反応するのは、そういう生命の兆しが木の芽の色に宿っている、というような、記憶を確認して、心が動かされていることでもある。私の命があの太陽と同一であるような実感。それらはすべて幻想であり、私の脳が妄想を起こしているのだろう。しかし、それはあたかもすべてが実体験のように、生々しく、現実であり、疑うこともできないように、眼前の世界が輝きを持ち広がっている。こういう、記憶や、想像を含めて、見えているのが今の朝日なのだ。これを描こうとした時に、筆触でこの気持ちを表す必要があるし、作り出してゆく色の組み合わせで、私の頭の中に存在する風景に近づけてゆく以外に、わたしには方法が無い。その時に一番確かなことは、これだと叫んで、指を挿せばいいのだが。それを画面として残してみようとする、無理な行為が絵を描くということになる。
絵を描くということは、視覚的に見えている世界では済まなくなり、その世界に捉えられている自分というものを描いているということになる。だから、そうした行為はその世界に近づくことはあっても、その世界そのものになるということは、あり得ない行為なのだ。そこで、大抵の場合、一応の所で置いておいて、自分の様式の中で解決を見たようなことにして置こうとする。そんなことは空しいことだから、本気で、その内なる世界の真実に迫ってゆくということは、常に絶望と背中合わせの行為と成らざる得ない。絵を描くということはここまでできたというより、出来なかったという、絶望感、あるいは嘘をでっちあげたという、空しさ。こうしたものがいつも伴う行為になる。だから、「私絵画」と言わざる得ない。せめて自分には正直であろう。他人の目を入れないで、出来ないということに向かい合い、個人的に描くことになる。