続・石破ブログ批判
石破氏がブログを訂正したというので、読んでみたのだが、何を訂正したのか意味不明である。自分の考えの間違いを認めた訳ではない。デモに対する認識は、本質的には変わっていないと思う。以下のように訂正したのだ。一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います。デモを嫌っていることが理解できる。これでは民主主義を否定しているのだと思う。私は何度も、肉声ではあるが、大音量で国会あたりで、「原発反対」と叫んだ。「TPP反対」も叫んだ。まさにテロリストと本質的に、変わらないと言われた人間の一人だ。実際の大音量は最近よく待機している、右翼の街宣車の方だ。何故このことを石破氏気付かないのだろう。仲間の大音量は心地良いということか。
現在の、政治の実際では、公聴会や、パブリックコメントなどというものが、通過儀礼になっている。参議院の参考人の意見でも、自民党推薦であろう、瀬谷俊雄・東邦銀行相談役までもが、「国家権力に対して、民間までが処罰の対象になるのは疑問だ」と述べ、法案が民間人を処罰対象としていることに疑問を呈した。その上で「国益の範囲を極力絞って、集中的に適用されたらいいのではないか」と述べ、法案の慎重審議を求めている。先日の福島で行われた、特定秘密防止法の衆議院地方公聴会では、多くの方が、鋭く批判をしていた。にもかかわらず、その翌日には、強行採決である。意見を聞いて検討するという姿勢が全くないのに、形だけは一部の国民の声を聞くというのは、これこそ独裁政治ではないか。私は特定秘密保護法は、情報公開法とセットでやらないと、民主主義が守れないという意見を持っている。こういう意見をデモで大声で主張すると、民主主義と相いれないものとなるというのは間違っている。小さな子供連れも参加しているデモを、テロリストと感じてしまう心理は、腹黒い権力者の不安そのものであろう。
本来あるべき民主主義とはどういうものだろう。インターネットを利用した直接民主主義だろうか。すべての国民に権力が与えられている形なのか。果たして、戦後、民主主義は日本で育っているのだろうか。一番の根幹になる、国会の選挙制度自体が、最高裁で違憲状態と言われているのだ。3権分立が憲法で決められた考え方である。国会が憲法の意義を認識できない状態だ。それがまずいとなると、憲法の方を変えればいいという意見が出てくる。民主主義は憲法に基づき、国の運営をすることを決めて、代議員に政治をお願いしている制度のはずだ。それが憲法を守ろうとしないと、最高裁判所に言われても動こうともしない。こういう時に国民に出来るのは、あらゆる方法での意見の表明以外にない。デモもその一つの方法だ。これを大切にしなければ、あるいは抑え込めば、本当にテロが登場する。デモの参加者もこれで政治がすぐにも変わると思ってはいない。しかし、やむにもやまれぬ思いで忙しい中出かけてゆくのだ。デモは民主主義を守り育てる大切な行為だと考えている。
自民党の中が実におとなしい。民主主義を成立させるデモという基本的権利を、こんなに軽々しく考えている政治家を、幹事長としていただいていることに対して、おかしいと言う意見が出てこない。意見を言えば、出世できないというのが、自民党内の権力構造なのだろう。今の政治家はまるで勤め人のようだ。出世というか、自分の権力欲、自己顕示欲を満足させる為だけに、政治家になっているような人ばかりのようだ。右翼の街宣車の高性能スピーカーを取り締まれないで、市民的デモの声をテロリストと感じるという幹事長を、おかしいと言える自民党員はいないのか。条例で音量は決められているはずだ。それを越えているのは、選挙カーと街宣車の方だ。そっちはテロ集団とは感じないというところに本音が出ている。