大学認可の問題点
大学は随分増えた。大学が増え進学できる人が多いいことは良いことである。しかし、大学が研究能力を低下させ、教育機能中心に成るのは問題である。地方の大学が経営難に陥っている。田中文部大臣が大学と教育の質低下を懸念し、認可制度改革を主張した。その唐突な手法が批判され、謝罪した。この位アピールしなければ何も変わらないような深刻な状況だと思う。官僚の作りあげた認可制度と、建前の設置審査会の手法の壁である。大きな流れは自由化の方針であった。私が生まれた頃と比較すると、大学数178校が783校に成っている。大学は4,4倍に増加。一方小学校も中学校も減少している。高校については1,62万校が3,40万校の倍増である。進学率でみると、大学短大等進学率が57、6%.そして2010年以降減少を始めている。入学者数でみると10年ほど前から頭打ちから、減少傾向に入っている。今春の入学試験では私立大学の46%が定員割れになった。
当然、地方で乱立気味に設立はしたものの、生徒が集まらない。留学生数はここ10年で3倍に成っている。中国等からの新設大学への留学が想像される。偽装留学で問題になった大学もある。「見直し」方針が決まったのは大学設置・学校法人審議会である。その委員は「設置審には大学関係者以外の委員もいるが、審議の内容があまりに専門的なため、ほとんど発言できていないのが現状」と指摘。「大学の質の低下や数の問題は国の規制緩和が招いたこと。」見直しの内容は「有識者による検討会をつくるなどし、幅広い意見を聞きたい」と説明。その上で「新設される大学や短大の需要や地域性などを詳しく分析するような審査体制であってほしい」と語っている。現在の審議会委員は29人のうち22人が大学学長や理事長ら大学関係者が占めており、田中文科相は「大学同士でお互いに検討している」と批判している。
これから大学生の数が減少して行くのは、明らかである。現在の大学は就職予備校化している。大学に行く目的の大半は、より良い職業のために成っている。大学は学問の為の組織である。むしろ研究のための組織が、教育を行うと考えたい。企業社会が就職のための大学にしてしまった。経済優先の生き方が、良い会社に就職することを目的化している。もしレールから外れてしまえば、良い人生はないという強迫観念にとらわれている。しかし、競争に勝ち抜いて教員になった者のうち、4人に1人は辞めてしまうそうだ。どこかに無理がある社会。より良く生きるということは、就職はあくまで要素である。自分らしい道を模索した結果が、就職であればそれは幸せな道かもしれ長いが、就職が自分の人生と全く結びつかない可能性もある。少なくとも、大学と言う場所はそうした自分と言うものを、学問の入り口に接しながら、探る場である。就職などしない方が面白い人生が待っているかもしれない。大学はそう言う事を考える場所であって欲しい。
学問は真理探究である。人間の科学主義への脱皮である。どんな学問に接するとしても、生涯人間として生きる哲学の形成に役立つものに成る。就職の為に、パソコン検定を勉強するのとは、少し意味が違う。大学で研究する、本物の学者に接触できる有難さがある。本気でイトヨの分類に取り組んでいる人間の魅力である。私にとってはそう言う素晴らしい人間から学んだものが、大学で受けた教育だ。大学が産学協同に傾斜し、企業の研究所化するなら、大学の価値は半減する。金沢大学は総合大学ではあったが、医学部は違う傾向があった。職業教育が目的である。学生の考え方も自由度も違った。大学闘争への対応も明らかに異なるものを感じた。見えない未来こそ人間を育てる。学問の世界に広がる、深遠な真理の世界を垣間見ること。利害を越えて科学的真理を探求する研究者に出会えること。そんな大学にしなければならない。