低放射能被曝の不安と死の事

   

低線量被曝とは、環境放射線などの研究者は数mSvから数十mSvを低線量と考えている。年間1~10ミリシーベルトの自然放射能以外の被曝の事をさすようである。自然放射線にともなう被曝は世界の平均で年2.4mSv である。法令で定められている原子力施設周辺住民の線量限度は年1mSv である。医療先進国での診断用放射線による被曝は年平均で1.2mSvである。「日本人のガンの3.2%は診断用X 線が原因」とされている。今の小田原では普通に暮らしているということは、私の計算では、年間の自然放射能を除いた被曝量は1ミリシーベルトは越えない地域である。食べ物からは、福島でも0,1ミリシーベルトにもならない。しかし、一方に放射線のリスクが、極めて高いと考える人がふえている。確かにどれほど低い放射能でもがんになり人間は死ぬ可能性はある。人間が死ぬというリスクは常にある。がんになるリスクは誰にも40%以上ある。人間が死ぬリスクと言うことになれば、100%である。放射能について、日本は汚染されてしまった。その現実の中での暮らしかたを考えるしかない。

日本は長らく自殺者が3万人を越えている国だ。犬や猫や鶏と暮らしていると、生き物は必ず死ぬということが嫌でも分かる。彼らを見ていると、人間ほど死と言うものを忌み嫌う生き物はないことがわかる。日常的に生き物の死に立ち会う。実にスムースにあがかず受け入れる。多くの宗教が、死とか、死後とか言うものを扱っている。死後の事がわからないから、不安が増幅するのだろう。6歳ぐらいの頃、非常に死が不安だった。死ぬということはどういうことか。大人たちに聞きまわったが良く分からなかった。「何にもなくなるのだ。」こう言われたが、そのことが良く分からなかったので、さらに怖さがました。一番そうらしいと思ったのが、「寝ているようなものだ」ということだった。それから寝ると言うことが不安になった。

生きると言うことは、死のリスクをかかえて生きると言う事。化学合成物質や、大気汚染、水汚染。自動車事故。焼却場だって、発がん性物質を振りまく施設である。それは考えだしたらきりがなくリスクの山がある。原発もその最悪の一つであろう。そこから出る廃棄物はリスクの山である。ごみの焼却は極力減らさなければ人間は滅ぶ。エネルギーは最小限の使用にして、原発だって火力発電所だって、廃止すべきだ。しかし、社会は経済を含めた全体で成り立つ。3万人の自殺者の多くは失業等の経済破たんが原因している可能性も高い。不況は自殺者を増加する。しかし、国の貧困状態と自殺率とは連動しない。すべてはソフトランディングではないだろうか。ほどほどを模索するしかない。リスクはあるにしても、リスクの選択をして、このあたりまでという妥協しかない。起きてしまったことにこれ以上、精神を痛めつけられていても駄目だ。宮古市のごみの放射能は、小田原のごみとなんら変わらない。痛みを分かち合うことがこの苦難を乗り越える方策である。

低レベル被曝をリスクと考えるのは当然だあるが、年間1ミリシーベルトを下回る小田原の場合では、そのリスクは自己判断である。畏れる人も、畏れない人も互いに干渉すべきでない。私は健康診断は受けない。健康診断からくる様々なリスクがいやだからである。ワクチンも打たない。ワクチンによる発病がどれほどわずかでもあるなら、自然感染してたとえ死ぬにしても、その方を受け入れる。健康診断を受けないがために取り返しがつかない病気になるとしても、それは選択だと思い後悔しないで、受け入れる。健康不安から、CT検査を受けてガンになることほど情けないことは無い。医療機関は利益と言うか、経営の為に、再検査などやるに違いない。「なん%再検査にして下さい。」などと言う指示が経営者からある気がする。要するに、私もだいぶ弱っているが、起きてしまった放射能汚染に、精神をやられないことだ。

昨日の自給作業:竹藪の片づけ1時間 累計時間:1時間

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