酒匂川と久野川
地域にとって川は水土を表現する、大切な情報と言える。足柄平野には、酒匂川が中央に大きく流れていて、存在感が大きい。箱根山系の東斜面を源流とする、久野川と早川がそれぞれに相模湾にそそいでいる。私が暮らす舟原は久野川のやや上流部の集落である。地勢的に酒匂川水系とは、様々に異なる小河川である。育った山梨の藤垈の集落は、笛吹川に流れ込む境川の最上流部分であった。土がほとんどない、といいたくなるほど石が多い土地である。その為畑をやるということは石を取るということだった。その畑の土も、大水が出るとすっかりと流されてしまい、河原に戻ってしまう畑も多かった。山で植林が始まってからは、水害は毎年のごとく起こった。舟原の土壌にほとんど石が無いことは、嬉しいやら有難いやらで畑を耕して拍子抜けだった。同じような山と川への距離であるが、土壌の性格はまるで異なる。藤垈でも田んぼは舟原と同じくらいの棚田であったが、川そのものが水持ちが悪く、水不足が普通だった。
久野川の水を使って田んぼを行って居る。田んぼを始めたのは、越してくるより3年ほど前だったので、14年間久野川の水で田んぼをやったことに成る。この間川の変化はつぶさに見てきたつもりだ。先日の6号台風では、箱根一帯で500ミリを超える雨が降った。舟原付近でも時間雨量で30ミリあったから、かなり強い雨であった。久野川は今年初めて茶色に濁った。最近濁らなくなっていた久野川が久しぶりに濁った。しかし、翌日には流れ自体はまだ強かったが濁りは消えた。一方酒匂川の方は、まだ濁っている。一度濁れば1週間は濁り水が流れる。いかに酒匂川上流の丹沢山系の山が荒れてきているかである。今から14年前坊所で田んぼを始めた頃の久野川は、10ミリ程度のちょっとした雨でたちまちに濁り、濁リは長く続いた。田んぼにたちまちに赤土の被膜が出来てしまうほどであり、雨が降ったら急いで入水口を止めて、濁りが無くなるのを、今か今かと待っていた状況であった。何故このような変化が10年間にあったのかが重要である。
山で表土が出ている場所が減ったのだ。一つには畑が減った事があると思う。舟原から上流部にある畑で野菜があちこちで作られていた時は、雨のたびに畑から茶色の水が流れ出ていた。畑からの土壌流出は相当深刻だと思っていた。和留沢に行く林道が茶色の川に成るのは普通の事であった。それに加えて山での土木工事が続いていた。林道工事が多かった。最近工事が減っている。不景気で工事が出来ないということか。市長が交代して、土木工事が減ったということか。舟原を通過するダンプカーの台数がめっきり減った。今でも、工事車両と思しき車が通ると、気にしてみているが、だいたい地域で分かっている車が多い。以前は、何故こんなに土砂を運び出すのかと思うぐらいダンプが行き交うことがあった。林道の作り方で、土砂が流れるそうだ。そうした困った林道でも、時間とともに土砂の流出は減少する。
酒匂川は昨年氾濫した。確か今年と同じように丹沢に500ミリの雨が降り、橋が流され、江戸時代からの水防の堤まで決壊した。以前は酒匂川は暴れ川で氾濫を繰り返した。富士山の宝永の噴火以降火山灰が大量に降り積もり、河床が浅くなったということが大きな原因のようだ。酒匂川の治水の歴史をみると、川を安定させ、水田を維持するということがどれほど大変なことであったかが分かる。酒匂川の濁った水の色を見ると、この上流部がダムが相当に問題なのだと思う。このダムを放流することが濁りが続く原因のような気がする。酒匂川から取水した田んぼの用水も、まだ濁っている。田んぼまで濁ってしまった。久野川が翌日には濁りが消えたことは、とても良い兆しだと思う。
昨日の自給作業:田の草取り2時間 累計時間:47時間