原発抜きで経済は大丈夫か。

   

日本の電力事情を考えれば、定期検査を終えた原発については安全性を確認した上で、順次運転を再開することが必要だ。
 現在運転している原発も、検査で来年夏までにはすべて止まる。全国的に電力不足が深刻化し、生産減少や消費の冷え込みが景気の足を引っ張る恐れがある。
 電力コストの上昇で、企業が工場を海外へ移す「産業空洞化」も加速しかねない。ー―読売新聞社説

日本に根強く存在する、原発必要論の根底にある考えは、経済の不安であろう。原発を止めてしまい、資源のない国家である日本の経済は駄目になるだろう、という考えである。これほどの大事故が起きてすら、この考えから抜け出られないでいる。抜け出られないどころか、どれほど顰蹙を買おうが、事故の収まらない中で、原発再開の発言を繰り返すぐらいだから、もう信念に成っているとしか思えない。原発を止めてもらうには、日本経済の為にと言う人たちに対し、きちっと向かい合い。議論を始めなくてはならない。原子力村とか、原発マフィアとかいうような、利益誘導が目的の人たちは度し難い人たちで相手にしたくもない。日本の未来を考え、日本経済、ひいいては日本人の暮らしのためには原発やむえず。と考える人に対してである。経済が今までのように行かなくなるのは、原発を止めることが原因ではない。世界経済においての、日本の置かれた状況にある。

1960年当時、夢のエネルギーとしての原子力は語られていた。日本は資源がない。どうしても原子力エネルギーを開発するしかない。だから東海村での原子炉の立ち上げ時は、素晴らしいことだと思い込んだ。キャラメル一つぐらいで、地球を一周できるのだ。こういう夢が新聞にも盛んに書かれていた。まさか、死の灰の事や、事故のことなど当時は想像すらできなかった。小出先生だってそう思うから、原子力工学という最先端の道へと歩んだのだろう。小さくて輸送に便利で、安いエネルギー、原発に取り組んだ。その根本が、みんな嘘だったのだ。原発事故はすべての汚染物質を海に放出しかねない、最悪の状態が進んでいる。この事故が解決できない中で、原発を安全確認が出来たとして、再開を政府は宣言している。つまり、当面の経済のこと以外、何も考えてもいないということである。政府と言うものがまともであるならば、少なくとも日本の将来のエネルギー政策を決めことなく、原発再稼働だけを発言することは出来ないはずである。

石油もそうだが。需要と供給のバランスで価格は決まるのだから、有限のウランも何時までも割安のはずはない。みんなが使えば石油並み価格にはなる。今のところ利用者が限定されているから、比較的安いというだけだ。一方で、再処理の方が出来るはずだったから、夢のエネルギーと呼ばれたのだろう。ところが今の技術では再処理はほぼ産業化はできないということが、証明されてきている。少なくとも50年くらいの時間、実用化は無理と言われている。さらに安全のハードルが高い技術だから、長期で考えたら、日本のような地震国には、向かない技術と考えざる得ない。50年かけて新技術を開発するとすれば、太陽光のような、風力のような、波力のような、地熱のような、どこの国にもあり、平等なエネルギー資源に取り組むことが、世界の安定のためにもいいはずである。日本がそうした自然エネルギー技術の最先端国家に成ることが出来れば、充分世界経済の一角を占めることが出来るはずである。経済を主張する人は、このことをどう考えているのだろうか。

原発の最大の問題点は、化石燃料同様の循環しない手法だった。この点が致命的な欠陥である。安全対策がどれだけ進んだとしても、死の灰の処理法だけはどうにもならない。どこかに埋めたとしても、何万年も管理しなければならない。未来の世代に負の遺産を残していいはずがない。だから、自然エネルギーでも、循環する技術を開発することである。資源のない日本が世界に伍して行く、ふさわしい道は、自然エネルギー開発のはずだ。このことを前向きに考えるべきだ。水力だって、誰でも使えるようにすれば、暮らしの電気程度は、賄えるエネルギーがある。日本人らしい細やかな工夫が生きて来る技術である。トイレの流れる水で発電をする。ちょっとした工夫の積み重ねで、家庭の電力は自給できる。その技術を原発にかけた位の費用と熱意で、挑戦すべきだ。と言うようなことを説明しても、多分、経済はは聞く耳を持たないのだろう。しかし、原発が経済を支えているという固定観念を、何としても捨ててもらわなくてはならない。

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