ツイッターの140字
ツイッタ―というものがある。すごい広がりらしい。読んだことはあるが、存在の意味が良く理解できていない。先日のまちなか市場では、ツイッターを読んで来たという方がいた。何か違う状況らしいが、良く分からない。ブログのこともそうだったが、分からないままひつこく書くことになった。ピースカフェという通信を発行していて、その紙媒体に書くには500字くらいだった。短かくて十分書けない。というのが、ブログを始めた理由である。140字の枠では性に合わない。10倍の1400字くらいないとかく気持ちになれない。ツイッターの意味は「つぶやき」らしい。つぶやきという軽さが受けるのだろうか。140字のつぶやきは現代世界の傾向をよく表している、そんな感じはする。どうもこのつぶやきというのは、同時性とか、共有感で広がるのでないか。一言でいえば感覚的な共感の世界。直観的共感。承認や保証を求めるこころ。
最も嫌いというか、苦手なところである。検索でも最近はツイッターに入り込むことがある。何ともコマ切れで、個人の存在というものがない。雰囲気で伝わることもあるだろうが、大体が誤解の渦巻き。仕掛けをする。知らず知らずに、刷り込まれる。サブミナル効果は相当にありそうに見える。論理的で出来る限り正確でありたい。ブログというものが、公開日記なのだと説明されたので、そういうものなら可能性があるかと思って、良くも分からず始めた。ところが、このブログもある人の話だと、人為的に大量情報を流し、幻影を作り出しているという話もある。数が無限大だからと言って、操作は可能なのだから油断はできない。増して、世論で最近の政治は動いている。世論調査で支持されないから、総理交代である。世論の後ろに本当の、国民はいるのだろうか。世論を作り出す操作は極めて活発である。世論調査結果で政治を変える手法は、衆愚政治への道。
ツイッタ―の長所が上手く使えそうなのが、囲碁将棋の岡目8目観戦記。興味を増す有効な方法に思われる。大勢で、ワイワイ、がやがやと、無責任に言い合う。これはこれで面白い。様々なつぶやきが飛び交う。次の手を当てた人間が自慢する。と同時にその手が悪手だったりして、恥をかく。恥と言ってもつぶやきだから、大した恥でもない。一言、口に出すことで、興味が倍増する。政治家の中に、ツイッタ―を一早速取り入れている人が存在する。イメージ戦略を狙う人には、もってこいの手法だ。利用して自分のイメージを創り上げられれる。私ならツイッターをやる政治家は信頼しない。河野太郎氏はブログもツイッターもやる。ツイッターは止めたらどうだろうか。本来政治家は政策である。その人間の性格や感性などどうでもいい。小泉元首相はその点、イメージ戦略の典型。日本人が感覚で動くようになって現れた首相。ツイッタ―的首相である。クラシックがどうだこうだとか。そんなことは、個人的にはどうでもいいことである。
しかし、選挙に追われる未成熟な政治状況の、民主主義を建前とする日本では、ツイッタ―政治家が続出しそうだ。聞くところによると、相当すでにいるらしい。すばしっこいものである。選挙民と距離が無くなる錯覚の利用。民主主義というものは、永遠に成熟出来ないものなのかもしれない。きちっとした政策に基づく政治。民主主義の責任の所在。理想的な人間社会など永遠にないし。今の日本人を反映する方法を、民主主義とする以外にない。どこかに民主主義の理想郷があるはずもない。評論家的スタンスでは何も変わらない。ツイッタ―を使って、誘導できる現実が想像できる。ツイッタ―の天才が、ヒットラーにならないか。少々不安になる。日本人が動く大きな手段になる可能性がある。140字と言えば、テレビの評論家のコメントはちょうどこの位で、いい加減な場合が実に多いにもかかわらず、影響力は大。
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