検察の犯罪の場合

   

犯罪が起こった場合、まず捜査するのは警察では無かったのか。今回の特捜検察内部の事件では警察はなぜか全く関与しない。検察の方が上に位置するようだ。上の者を下の者が扱うことはないということなのだろうか。日本の検察は絶対的な権力を持ち、誰からのチェックを受けることもない組織になっている。国民の自由と人権を、その手に握りしめ、正義の使者として、取り仕切ってきた組織のつもり。現に、尖閣諸島では外交問題にまで、地方検察のレベルで独自の判断を下せる存在となっている。三権分立の原則から行って、間違った権力集中の構造である。検察の犯罪を検察が調べている。こういう時でも、ストーリー立てはあるのだろう。ストーリーは有能な割り屋として認められていた、前田検事がその期待の重圧から、功を焦り証拠のでっちあげを行ってしまった。FDの書き換えをした。これが噂になり上司の知るところになったが、間違いということで処理しようというこにしてしまった。せいぜいこんなストーリーのようだ。

村木さん逮捕時点では、検察はすでに矛盾を把握している。根拠のない逮捕を強引に行う検察の犯罪。今回の郵便制度悪用事件は結局、上村元係長の個人の犯罪と言う部分以外は、何も分からないままである。分からなくなった原因は、ストーリーの作り方が間違っていたからである。どうしても民主党の大物議員とつなげたかったのだ。むしろ特捜としては、そこがこの事件の目的であった。自民党からの圧力があって、特捜は動きだしたと考えざる得ない。上村元係長の自供から村木さん逮捕に進んで、その先がむしろ目的だったはずだ。民主党幹部議員が関与という憶測話が、当初から流れていたので、村木さんが関与していないはずが無いと思い込んだ。議員案件だから、担当部署の課長以上の職員が関与したはずだという、想像を外せない。ここが問題で、当時の部長は政治案件だからという指示をしたかもしれないというような、事だった。現在小豆島の町長である、元部長。この人が一番真実に近いところに居る。しかし、多分墓場まで抱えて行くのだろう。犯罪というのは、すべてが明白になるとは、限らない。

犯罪は減少しているのに、悪を暴きたてることに執着する報道。その劣化に伴う勧善懲悪の図式。検察権力はこれにあわせるよう正義の使者的な国策捜査が多くなった。この犯罪の摘発率と冤罪との関係。「100の犯罪を逃すとしても、一人の冤罪を起こしてはならないと考える。」これが近代国家の司法の在り方でないか。人権の軽視される国、独裁国家では、権力の力を見せつける必要があり、怪しきは罰することで、権力の怖さを暗に示すことになる。公開処刑まで行われる。民主主義の後退として、一番恐れるのは、憲法に保障された、人権の尊重、自由の権利の圧迫である。こうしたことが検察によって、行われてきたことが表面化した。どれだけ犯罪が摘発できたとしても、自由に生きる権利が抑圧されるのであれば、何の意味もない。可視化の必要性は、可視化によって検察の捜査が、人権重視に変わらざる得ないことが最大の目標である。自白調書主義から、科学的証拠主義への転換。犯罪者を取り逃がすことより、社会から人権が無くなることの方が問題なのだ。

長年放置されてきた検察権力は、独善と出世主義とエリート意識に侵され、社会一般とはかけ離れた、独自世界を作り上げていた。取り調べの可視化を検察、警察双方に課す。これがこの問題の解決の第一歩になる。現在取り調べが行われている、検察の犯罪が組織ぐるみ、あるいは組織の体質にあったのか、特異な個人の犯罪かを見極めることが着目点だ。これを最高検察というところが調べているようだが。正義を貫くために、この機会にこそ可視化してもらいたい。そうすれば、内部で手を打つようなおかしな調べ方はできないはずである。今回の特異な事件を検察の病巣と考えて、自ら可視化をすることで、社会理念を取り戻す第1歩にすることだ。報道に火を付けられた、不思議な正義感に突き動かされている、危険な大衆という存在の説得にもなる。

 - Peace Cafe