降りて行く生き方
第3回ローカルサミットのプレイベントとして、「降りて行く生き方」の上映会があった。三の丸小学校の体育館で開催された。題名からして、ちょっとおしつけがましいところが、多分好みではないような気がしていたが、この映画が作られる過程の話も聞いていて、是非見たいと思っていた。興味深く見せてもらった。良質な映画ではあるのだが、どうも当事者的感覚のものには若干作り物ぽい所が気になった。方向はいいのだから多いに評価したい映画ではある。暮らしを変えよう。戻ろうじゃないか。お金に惑わされるような生き方から、人間の一番底にある命に従った生き方をしようというメッセージである。限界集落と呼ばれる地域での稲作りに、日本人の根底にある生き方がある。稲作や酒造りにある日本人の暮らしの根底にある価値観。森から作られる水。水がはぐくむ命。その水土を集約された稲作。棚田での生き方。ここに戻らなければ五〇年したら、この暮らしは崩壊してしまう。という命の叫び。
1955年ごろのことである。境川村の青年団の活動として映画上映会があった。大久保と藤垈の中間に、境川を渡る小さな橋があった。その橋のたもとにいくらか広がった。場所があった。多分山から木を下ろしてきて、一時的に貯木したところだろう。その空き地で、村の青年団が映画会を記憶では3回ほど行った。生活改善クラブとか、青年団活動とか、村の青年団がやけに盛り上がった時期があった。映画は2本立てで、内容は様々で「鞍馬天狗」から「にあんちゃん」と言った様な映画を見た記憶がある。暗くなった広がった河原に、白いスクリーンを張る。そこに映画を映すから、裏側からも映画が見えた。なにしろ、溢れんばかりの人出で、中には入れなかった。事前に前売り券を青年団が数人で回って売りに来た。お爺さんは女子中学生だった、叔母さんが見に行くのをとても嫌っていた。叔母さんは、こどもの私を連れて行くという理由で、行きたくてしょうがない映画に出掛けた。
「降りて行く生き方」の上映方法が、あの雰囲気を醸し出していた。生真面目な手づくり感がいい。村の文化を打ち破りたいというような、青年団長がとてもまぶしい存在であった。今回は映画のプロジューサーという人が、そんな雰囲気だった。命がけで作ったとか、力んでいたがそういうのは、言わぬが花。映画は映画の力で、生命力を発揮する。説明など何の意味もない。あの村の青年団長は鞍馬天狗を見せながら、自分たちの目的を十分達していた。村の大改革に取り組んだのだ。大久保は田んぼすらできない、それこそ限界集落であった。そこで、明日の食べ物のために必死に開墾をして、生き抜いていた人たち。引揚者や都会の親せきなどで、人口は溢れんばかりだった。そういえばお寺の本堂で生活改善クラブだとおもうのだが、集会を開いたこともあった。何時も苦虫をつぶしてする、おじいさんがニコニコ冗談話をしていて、びっくりしたものだ。
あの戦後の情熱、今ああいう感じが小田原にあるのかもしれない。もう一度、畑をやることだ。田んぼをやることだ。そこからやり直してみれば、何とかなる。それは体験とか、自然に触れるとか、そんなあたりさわりのないことでなく。そこで生きる覚悟にならないとならない。刈谷さんが舞台挨拶をされた。刈谷さんは私にとっては、考古学者である。先日、小田原でも立派な発表をされている。何か考古学者が映画にも出ているという感じで受け止めてしまった。とてもいい演技であった。いい演技と言えば、武田鉄也さんも、珍しく本気の熱演である。この映画を支えたようなものだろう。伝わる熱いものがあった。機会があれば見て、いやこの映画は機会を作る以外見ることが出来ないものらしい。この上映法もなかなか面白い。機会を作って、ぜひ見てもらいたい映画である。