雑草のこと
「雑草などというものはない。」よく言われることばである。どの草もそれぞれの特徴があり、れっきとした固有の種である。作物と比較したとき、迷惑な草という意味で雑草と使う。確かに失礼な話である。草生栽培とか、自然農法とか草を仲間とする栽培法がある。誰しも最初はあこがれる農法ではないか。山北で自給を始めた時は福岡式に挑戦した。当然、挫折した。その後、川口式やMOA自然農法と関心は持って見てきた。それから23年もたつが、最近やっとその草のコントロールが見えてきたところである。「良い土には草が生える。」当たり前のことに帰結した。作物が出来る土壌であれば、大いに草が生えて当たり前である。この当たり前に気がつくのに、ずいぶんかかった。「良い土には雑草は生えない。」という、呪文のような言葉に引っ掛かっていた。土のイメージが混乱していた。草も生えないような土壌では作物もできない。当たり前のことである。草と作物の共生の道。平和の農業。
「草を活かしたらどうなるか?」坂本見苗さんが現代農業8月号に書かれている。とても面白い記事である。川口由一氏の大きな迷惑と深い有難さ。信仰でもなければ、何年も収穫が少ないまま実践を続けることはできない。しかし、その普通ではだれも試みないような、自然農の先にはたしかに面白いものが出てくる。失敗の連続の先の先に、自給農業ならできるだろうという不思議な農法が徐々に現れてきているようだ。笹村農鶏園の農業の形でもある。実は、最近になって少しこのやり方で、作物ができてきている。「良い土には悪い草が生えない。」これは松本さんが実践から教えてくれた言葉である。作物の性格がわかるということが必要である。草との相性というものが見えてくると、徐々に作物の共生の位置がわかってくる。雑草だった草が、名前のある草に変わる。つまりコントロールの範囲に入る。わかってくると、草は貴重なものに変わる。
草木をみるというのは、地質関係者にとっては当たり前のことである。現状の草木の状態で、その土地の地質的歴史の推測が出来る。畑においても全く同じことである。草をみれば、大体のことが分かる。坂本さんは畑の草の遷移を、1、ススキやスイバ 2、ヨモギ、フキ、ハルジオン、ヒメジオン 3、エノコログサ、ヒエ 4、ツユクサ、スベリヒユ、アカザ、ヒルガオ、ギシギシ 5、ハコベと書かれている。草に応じて作物を作ればいいとしている。1、大豆、タラの芽、ワラビ 2、あずき、大豆 3、カブ、かぼちゃ、いんげん、里芋、きゅうり、ジャガイモ、さつまいも、エンドウ、大根 4、トマト、なす、ショウガ、シシトウ、トウモロコシ 5、キャベツ、白菜 このように作物を対応されている。なるほどといえるし、そうでもないな、というところもある。当たり前である。それが自然農法らしいところである。栽培者の個性に畑は反応する。トマトが好きならそういう畑になるものなのだ。
私の場合、「良い土」と最初に考えたから、迷路に入り込んだ。もっと大きく全体性から考えるべきだった。「水土」と考えるべきだ。これは岩越さんの提唱する考え方である。水土は土木の本来の言葉である。土を考えるときには、水の流れということが外せない。表土での流れもあれば、土の深層での流れもある。この水の流れを見極める技術が水土技術。天皇家は古代のこの水土技術者とみている。天皇家は米作りの総本山。良い土壌は水を十分に抱えられる土である。水と土の関係を把握する。微生物とかミネラルとか炭素とか、すべてはこの関係を見ておけばいい。天から降る雨と、川から流れてくる水、地下水脈の水。これを活かして使うことが、良い土壌の原点。良い土壌になれば、草も自分の理解の範囲で現れ消えてゆく。予定通りであれば、草に困ることはない。草にやられるのは、予想外の展開だからだ。この7月の天気であれば、この後出る草は、麦の敷き藁で対処する。そして、秋作に入る。
昨日の自給作業:田の草取り1時間、大豆の種まき1時間 累計時間:18時間