11回水彩人展近づく
水彩人展出品作を描いている。二つのシリーズを書いている。6点の2シリーズのどちらにしようかと考えている。林の景観を描いたものと、水の渦巻く姿を描いたものである。「水のシリーズ」は以前から描いていたものを、すこし新しい観点でまとめなおしている。「林のシリーズ」は新しい試みで、何かありそうで探っている。どちらも、構成的なものが興味で、進めている。林の方が新しい考え方で描いているので、どちらかと言えば、こちらを出したいのだが、完成できるか、せめて一定のまとまりまで行けるのかはまだわからない。水のシリーズが描きやすく、面白くなり安いのは、どうにも出来る点である。水とか、雲とかいう物は、どんな形であれ、色であれ、一応観念として各自が持っている情報と、繋がる事ができる。絵を描くと言う事は、見るものは頭の中にある、情報と結び付けて見る事になる。
林のシリーズと言っても、別に本当の林を書いているわけではない。手前の線とその向こう側の色との関係を描いている。だから、その手前に位置づけれる、線は木であったり、船のマストであったり、当然、意味のない線であったりする。しかし完全に抽象として、意味を持たせないように描く事も面白くないと考えている。何故そうなのかは、認識している訳ではない。ただ、意味を持った線でありながら、無意味でもあるのが面白い。最初から、無意味に根拠なく線を引くと言う事が、性格的に、生理的に合わない。だから抽象画と言う表現には、興味がない。大半抽象画という物は、デザインだと思っている。具合のよい、自分の心象に適合する、デザインをしている。それは私の考える絵画表現とは縁がない。あくまで絵を現実との呼応と考えている。それは目に映る現実というものがあまりにすごくて、実はこれを見ていれば描く必要がないのかとも思う。
最近描いていて思うことは、世間で絵といわれているものと、自分が描こうとしている、絵と考えているものがあまりに違う。だから、今は人の絵に関心がほとんどない。こう言う事は周期的にあったのだが、今回は、もう今後他人の描くものに興味が湧く事はないのかもしれない。と思えるぐらい、人の絵は関心がない。何かの偶然で、人の絵が目に入る事があるが何でそんなことが面白いのだろう、としか思えない。展覧会の案内状が時に来るが、そんな状態なので、見に行く気にはなれない。絵を描く人間としては、末期的病状かもしれない。あまりに自分のやっていることと、世間で絵とされているものが、違いすぎて絵に見えないと言う状態。いわゆる飾り物の商業絵画云々でなく。自分の好きに描いて入ればいい立場の人間が、何に向おうとしているのかが、不思議で仕方がない。
何故、見えているもののすごさを描けないのだろうか。見えている現実の素晴しさを、それは草一本であろうが、雲ひとつであろうが、その現実はどんな絵よりも圧倒的実在感がある。当たり前の事だ。そのものを通して、示されているものはやはり、自分と言う人間の目にぶつかった現実である。この現実を、見えている現実を僅かなりとも描いてみたいだけだ。どんな露骨な直截な方法でもいいのだと思う。それがなかなか、出来ない。できたと言う感じに成れないもどかしさ。見えているのに描けない。悔しさ。多分、林のシリーズは出せないで、妥協的に水のシリーズになる気がする。これの方が進むに違いないからだ。いつ絵を取りに来てくれるのか、もうすぐだろう。その日の電話があり次第額装をする。