最小限の家の完成
最小限の家は完成した。最後の窓など難しい所は、岩越さんが作ってくれた。最小限の家は、住まいという訳ではない。最小限のくらしの、モデルルームのようなものだ。笹村農鶏園の農業用倉庫である。「地場・旬・自給」の暮らしが、最小限に完結する姿を、具体化したものである。1日1時間の労働で可能なくらしがどんなものであるか。100坪の土地で自給のくらしは可能である。その自給くらしの探求の場である。体験の場である。自給のくらしがどんなものか、試して見たい人に「最小限の家」は開かれている。ある種パブリックのものだと思っている。私自身は管理人のつもりだ。開かれたとか、パブリックとか、言葉としては良くあるが、その実際は案外、巾があり難しいものだと思う。今の所、禅寺のようなものを考えている。開かれてはいるが、来て欲しいと宣伝しているようなものでもない。
寝られるのか、試して見たいと思っているが、まだ寝たことはない。8月21日に最初に寝てみようと思っている。それは、その日が60歳になるからである。かよ子さんが新しい財布を買ってくれたのだ。それも21日から使おうと考えている。60歳からのくらしを、自分なりにささやかに演出したいと思っている。最小限の畑は徐々に姿が整ってきた。最上段の鶏小屋。中段の果樹園。下段の畑。と3つになっている。鶏小屋部分は竹薮で囲ってある。周囲に音が出来るだけ洩れないためである。一番奥にさらに小屋を作ろうと思っている。鶏が静かに寝られる小屋を作りたいと思っている。雄鶏とか、巣についた雌鶏とかを入れたいと思っている。中段の果樹園はまだ木の充実が遅れている。びわの木はとても良いのだが、柑橘とブルーベリーがどうも良くない。下の畑は道路に面した崖部分がまだ整備中である。
いずれ、最小限のくらしは合理性を追求してゆく。合理性とは、黒マルチを使うことも避けないという事である。最小限のくらしは、美しいものでなければならない。しかし、その美しさはガーデニングのような、暮らしの根底と距離のある美しさではない。その美しさは絵画といっしょである。具体的に、見てもらう以外ないのだが。アクリル絵具という素材が悪いと言う事はない。充分に使い切っている作品が少ないだけである。アクリル素材の可能性は高いものがある。しかし、その可能性を生かした、絵具もまだあらわれていない。同じことで、農業資材も透明のビニールの登場で、画期的に変わった。避ける必要は何もない。天然素材だから優れているなどというのも偏見の一つだと思っている。無垢材と合板の違いはある。それも適材適所に過ぎない。こだわりがわずかでも見えると、美くしいものではない。黒マルチはタマネギに使ってみようと考えている。
最小限の家は過不足がないものでありたい。井戸水は引いたが、電気は引いてない。電気は風力か、ソーラーにしたいと思っている。今後の課題である。この小さな10㎡の家は、クラインガルテンでも、使えるものであろう。薪ストーブは置いた。山北で使っていたものである。これで少々の調理も出来ない事はない。費用は自作すれば、100万円のものである。100年の耐久性がある。月々で考えれば、1000円以下の家である。最小限のくらしは、会社に勤めながら、自給自足が可能なくらしである。これからの世界の経済の変貌の中で、ソフトランデングする場所を提案しているつもりだ。何があっても慌てることのないくらしを、探求し、提示してゆきたい。何でもやって見なければ分からない事が多いものだ。今後も形を変えながら、より合理的なものに、進化させてゆきたい。
昨日の自給作業:草刈1時間 累計時間:16時間。