四川大地震とミャンマーサイクロン

   

未曾有の大災害が、相次いだ。自然の猛威というが、自然の本質が現われる。自然というもは、とても人間がコントロールできるようなものではない。天が落ちてきたらどうしようと、悩む事が、杞憂だそうだが。自然を理解して、諦めが付かなければ、何時だって不安だ。私の地域でも防災がよく言われる。時どき防災訓練はあるようだが、申し訳ないとは思いながら出たことがない。家も耐震構造に直した方が良い。とか言われるが、そうした心配はした事がない。なるように成ると思っている。心配した所で手に負えないに決まっているからだ。どうにもならないことはそのまま受け入れる。これは安心に暮す。鉄則である。自然がどうにでも成ると思っているのは、現代人の錯覚である。昔の人は、自然が人間を超えた存在であることを、普通のこととして、知っていた。冷害や大風が、突然吹き荒れて、採れ秋にお米がない。こんな事は普通だった。突然のはやり病で、忽ちに死んでしまう事も、受け入れておく以外に無かった。

今回中国も、ミャンマーも、海外の人命救助の人材を受け入れないとしている。人間というものの愚かしさに、絶望的な気持ちになる。理由は政治的な事らしいとは言うが、国家にとって、実は人命は軽い。命というものが判断の芯にない。国家の運営が先で、そのためなら人命は、仕方がないという事だろう。それは歴史的に眺めれてみれば、権力の本質のひつであることが分かる。だから、権力は戦争をする。自国の命が軽いだけでなく、相手の命も軽い。平和に暮らす事ができる国とは、権力のない国だ。それはありえない。それ故に、あえて権力がそこに生きる人一人ひとりにあって国家にはないことを、人権尊重の日本国憲法にはある。自然の猛威は、正に暴力のひとつだ。この暴力が国民に及ばないようにする事が、行政の大きな役割であろう。と書きながらも、自然を前にそれは出来ない相談だ。と思っている。

ミャンマーは昨日になって友好国だけには、お願いすると言う事になったようだ。つまり、敵対国がミャンマーに入って、実情を知る。あるいはそのまま軍事政を排除する。いろいろ不安だから、国民が死んでも仕方がない。と考えていた事が、良くわかった。何故そんな、ありえないような想像をしてしまうか。自分たちなら、そうするからだ、としか考えようもない。そんな思想の軍事政権なのだ。この国の軍事政権を賛美している、日本の大使もいた。ミャンマーの軍事政権は、愚かだが、したたかでもある。中国では人的援助は充分足りているという判断のようだ。チベット族の居住地区で、反政府の活動が起こる不安からだ。という説がある。日本では、関東大震災の時に、朝鮮人がこの機を利用して、暴動を起こすというデマが流れ、朝鮮人の虐殺が起きた。正確な数は分からないが、何千人という単位である。日本人も同じに愚かである。中国ではチベット族を日常差別しているから、不安が起きる。

国際救助隊の設立を急ぐことだ。自衛隊を廃止し、同規模の救助隊を作る。そして、世界に起こる災害に、駆けつけて手助けをする。自衛隊よりはるかに日本の安全に寄与するはずだ。実績を積んでいけば、ミャンマーでも、中国でも、日本の救助隊は受け入れるようになる、はずだ。今友好国と見られないのは、アメリカの手先と見られているからだ。国際救助隊が日常活躍するようになれば、日本は世界のどの国にとっても友好国だ。日本の安全は一定確保される。ここでも、絶対はない。自然と同じことだ。絶対はないはずのものに、絶対の前提で考えようとするから、軍隊が必要になる。「生を明らめ、死を明らめるは、仏家一大事の因縁なり。」このように道元は書いている。生死を明らかにすると言う事。つまり、生死を諦めることが、坊さんの一仕事だ。と書いている。

昨日の自給作業:エンサイの種蒔き、おくらの種蒔き、菜の花の種取、3時間 累計時間25時間

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