宗教と政治
イスラム教のホメイニ氏から、創価学会の池田大作氏まで、宗教と政治の絡みは、常に危険をはらんでいる。このところずーと気になっているのが、チベット仏教のダライラマ氏だ。アメリカが自分の都合で持ち上げるもので、ノーベル賞をもらったりして、随分自信を持って来た。この人を過激派だという中国政府の主張は根拠がないわけではない。昔は、はっきりとした武力派の人だと、私には見えていた。なかなか巧みな政治家でもあり、どんな態度が、一番同情を買うのか判断が鋭い。長い亡命政権の運営をとおして、世界の政治情勢の複雑な絡みをときほぐし、実に見事に自分の位置を確保した。それが平和主義者の仮面だな、と胡散臭く見てきた。アメリカがどう持ち上げようが、それはアメリカの都合だけだ。フランスなど、何もわからないまま、調子の良い発言をしているに過ぎない。日本政府はそれでも本質をそれなりに見抜いてはいる、ようである。外務省の中国派は曲者が多いそうだから、同類の臭いを感ずるのではないか。
宗教家はそもそも胡散臭い。その宗教を信じないものからしたら、理解しがたい部分があるのは普通だ。その宗教家が政治にまで、現世にまで口を出すのだから、いよいよ怪しい。昔から、生臭坊主という言葉がある。案外に宗教家は政治的なのだ。公明党の変節はもう見るに絶えないものがある。自分達の利益だけには抜け目がない、ちょろまかした動きだ。さすが現世利益の宗旨だけの事はある。ご利益が無ければ、有り難味がないという事なのだろう。例えば、福田自民党を何時見限るか。この辺を見ていればその体質がわかるというものだ。公明党がくっつく所が、権力者だ。権力にこびて生き延びようという、特有の臭覚からすると、何時民主党に乗り換えるか、この辺の読みが、そう遠くなく見れるのではないだろうか。何故こんな事を書くかといえば、小田原の市長選挙では、既に民主党候補を、見苦しい姿で、押している。やたら歩き回っている。家にもやって来たという人の話だ。彼らにとって、恩を売るというのが、一番の処世術のようだ。
今回、引退する小澤市長は本音では五選を目指したい。しかし、自分の再選は難しいという自己判断のようだ。評判の悪さは、さすがに気付いた。引退の弁では、時代に合わなくなったと自ら述べている。しかし、この何十年で培った、小田原政界での厳然たる力の温存を量り、院政で行きたいのは、普通に想像できる。後継をあえて、民主党県議を選んだ。そう読める。豊島氏には、そもそも市長になる用意は無かった。だからこの前の県議選に出た。山田氏の方は、市長選への出馬覚悟で、県議選には出なかった。所が山田氏では小沢院政が引けなかったのだ。以上は何の根拠もない。しかし、そう読む以外ない。ここで、公明党が登場する。いまや選挙活動力が一番強いのが、公明党だ。この力を借りなければ、豊島氏の当選はない。もう、なりふり構わぬ活動を開始している。こんな事でいいのだろうか。一体宗教とは何か。宗教が政治に口を出していいことはない。
宗教が困るのは、その宗教を信じないものには、肌が合わないところだ。理屈ではない。私は曹洞宗の僧侶だ。その立場から自分宗教を見ても、社会の普通から考えればやっていることが、奇妙な事ばかりだ。宗教は個人の内的な問題だ。どんな宗教でも社会へのアプローチは、政治的であってはならない。宗教が政治に口を出すことは、必ず害悪が出る。今回の小田原の選挙では、小澤院政に加えて、公明党の現世利益の読み。豊島氏はみんなのでっち上げのようなものに見えてくる。万が一当選した場合。市政への見えない世界からの、影響力には怖いものがある。どんな現世利益が行われるのか。正直小田原は危なくならないか。最近、豊島氏は城下町ホール見直し発言をした。なんともお手軽な事だ。こんな適当な発言を平気でするような人だから、院政や、現世利益など、お手のものだろう。