小田原無防備平和条例
今、小田原では無防備平和条例制定の署名活動が進められている。わたしも受任者にはなっているが、署名集めには動けていない。ピースカフェの大半のものは、当然の事に、この活動にかかわっている。平和活動はゆるやかな連帯がいいと思う。平和運動を政治利用しようとすると、変な政治的動きで、反発し合うことになる。この名前が良くないから、変えるべきだ。小田原オリジナルな活動にしよう。こう主張した。何度か話し合ったが、この名前が、いいという事だった。その辺のセンスがどこか違う。全国的な活動と連帯できる気がするというのが、一つの意見だった。何でも地域に根ざしたものが好きだ。外からの動きに、乗せられるような事は、そもそも嫌いだ。この辺から少しづつ、中心から外れた。この運動の小田原での代一世代は、今回の事にはかかわっていない。
平和運動もなかなか平和ではない。この運動が目新しかった時、つまり政治的臭いが少なかった頃は、ちょっと面白い平和運動の形として、あまり政治色のない人が、良く話題にしていた。それは9条の会も同じ経過で、当初、共産党が乗り気でなかった頃は、市民的人気が高かった。もちろん私も3つ入っている。早く小田原でもやるべきだと、合同庁舎で開かれた、労働組合の集会を兼ねたらしい、憲法学集会で、発言して、はっきりとやらないという答えがあって記憶している。市民の運動にはそれぞれの性格と言うものがある。市民派は数は多いいが、それぞれに違う。又その違いにこだわりを持つのが、市民運動の傾向にある。政党としての、あるいは政治勢力の拡張戦略に、市民運動の取り込みと言うのがあるのだろう。例えば無農薬野菜の販売を地域で頑張りましょうと、言うのでかかわったら、実は背景に政党の支部があった。と言うようなことがある。
この運動のよさは、世界と言う視点が運動にある。世界が平和にならなければ、自分も平和に成れない。こう主張しているのだと思う。戦乱状況にあり、現実に戦いが起きている地域では切実な事だ。日本の平和主義を世界にアピールする一つの方法だろう。世界には無防備で暮している国もある。日本がそういう国に成る一歩だと、考えれば、大切なアプローチだ。日本がアメリカに依存して、要るこの状況は、実体はアメリカの世界での武力行為を、日本も同時に行っている事だ。アメリカの傘から外れた時の日本を考えれば、無防備が一つの選択であることが見えてくる。武力で平和は来ない。もちろん異論はあるだろう、私にもそれだけじゃないと言うのはある。しかし、むしろこの運動のよさを今は評価すべき場面だ。
小田原の市議会のレベルが気掛かりだ。城下町ホールでも、駅前再開発でも、何も実態を知らないまま、予算を承認してきた。このレベルの市議会では、無防備平和の、独特の考え方は理解不能だろう。この運動を通して、この機会を利用して、様々な形で、平和運動が地域で連帯してゆくと言う事が大切だ。少々の考えの違いは捨てて。又、自分の目先の利害を乗り越えて、無防備平和の運動も平和への一つの形には違いないのだから、自分のやり方とは違うにしても、条例制定にむけ、協力し合うときだと思う。この運動に力を避けない時間的状況にある。その点は申し訳ない。ここで小田原の平和運動の力量が発揮できなければ、これからの活動に差しさわりがでる。小異を捨てた協力心よりお願いします。