坂東眞砂子氏の「子猫殺し」正当化

   

坂東眞砂子氏「子猫殺し」のコラムを日経新聞が掲載した。
坂東氏は、直木賞作家でタヒチに住んでいる人だ。この人が雌猫三匹を飼っており、子猫が生まれるたびに家の隣のがけに放り投げている。と告白したコラムを日経新聞が掲載した。

「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない」「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した」などと記した。「タヒチ島に住み始めて八年。人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。動物にとって生きるとはなにかという姿勢から、私の考えを表明した」とコメント。

この坂東氏は、少し心を病んでいる人のようだ。犬も殺していると公言しているし、鶏が車にはねられ殺されているのを、見つけて歩くのを楽しみにしているそうだ。ホラー作家の自己演出なのか、とてもまともな神経の人とは思えない。坂東氏はこのように、犯罪の告白をしたのだから、後は司直の手で処理してもらうしかない。

養鶏をやっていれば、たくさんの鶏を殺さざる得ない暮らしでもある。人は生きてゆく為に、他の生命を殺し続けているのだから、何も生き物を殺すことについて、あげつらう気は無い。しかし、そうしたことに対し、痛みを感じない神経が、何んとも痛々しい。

問題は犯罪告白を注釈抜きで掲載している、日経新聞の責任だと思う。こんな不快な病的な記事を、何故平然と掲載したのか、いまだ、報道機関として弁解もしないのは何故か。おごりと判断力の衰退の表われでは無いだろうか。もし、この記事の掲載に対し、正しい判断だとすれば、その立場から、日経新聞の考え方を、表明すればいい。

8月15日を前後して「何故日本は戦争をしたのか。」こうした大切な話題が出ている。今までは殺された日本人の追悼ばかりに目が行っていた。日本人もようやく、本質に目が向いてきたのだと思う。なかでも報道機関の戦争責任問題を、私なりに調べてみた。

「大本営発表」を臆することなく大々的に報じ、国民を間違った道に、進めた。戦争賛美に荷担していたマスコミで、戦犯になった人は居ない。戦争責任を問われた者はない。また、自らの戦争責任を進んで償う報道機関もない。平然と、敗戦後も、報道を継続しているだけだ。

報道機関は、軍部の強い圧力によって、やりたくも無い戦争賛美を続けた。このような、自己反省の無い言い訳を、今もしている。1938年当時739紙あった新聞は、敗戦時までには57紙に統合された。紙の割り当て制度を操りながら、統廃合されていった。骨のあるところ、小さいところは、廃止され行く。軍に従うほか出版を続ける道はなかった。こうした言い訳が聞こえる。

この発行を続ける為という言い訳は、今の時代、スポンサーの為となっていないか。自ら、公器などと言いながら、実は、経営を目的化していないか。こうした、特定の方向に頭を向けながら、編集をすることに慣れる事によって、今回のように記事に対する責任と、社会的な意味を見失う事になる。

安倍氏が有利と成れば、哀れなほど、勝ち馬に乗ろうと群がり始める。安倍氏の統一教会への祝電はどうなった。靖国参拝はどうなった。右翼との繋がりはどうなった。女性問題はどうなった。出かかった偽念も全て消えてゆく。こうした事を調べる力こそ、報道の役割ではないか。不利益な方向は探ろうともしない。こうした、報道機関の病巣が、今回の「子猫殺し」には現れている。

しかし、インターネットと言う個人の責任による、発信はおもねることなく、意見を伝えることが出来る。次の報道の方向は、ここにあると思っている。

 - 身辺雑記