楽観を目指して生きる

   



 楽観的である。何でも上手く行くと思っている。自分だけは災難から逃れられると思っている。多分経験的にそう思えるようになったのだ。絵を描きに行くと、行ったところだけ雨が降らない。死んでもおかしくないような経験もあるが、大きな怪我もしたことが無い。

 幸いなことにお金に苦労したことは無い。生活力があるというか、運が良いということだろう。要領が良いからだとおもう。高校生の頃から、自分で生活費を稼いで暮らしてきた。大学も自分のお金で行った。フランスにも自分のお金で留学した。絵描きになろうとした頃は絵がよく売れた。

 開墾して自給自足で暮らしたときでも、卵を買いに来てくれたので、これなら養鶏業がやれそうだ、ということで自然養鶏を始めた。どうすれば卵で生計が立てられるか、色々工夫をして何とかしのいだ。今思えば山の中の開拓暮らしは楽しい事だった。

 何故運良く生きて来れたかと言えば、何とかなると楽観していたからだと思う。楽観とは何なのか。「自分のこだわりを持ち続ける」と言うことではないだろうか。これはこだわりを捨てろという良くある教訓の逆である。こだわりを捨てれば、運も捨てることになる。おもしろくも無い人生になる。

 楽観する運は自分が全力で引き寄せるものだ。ありとあらゆる方法で、力を出し尽くさない限り、運を引き寄せることは出来ない。もうこれ以上は出来ないと言うところまでやれば、大抵のことは達成できる。また、達成できないとしても諦めて、安心立命が出来る。

 絵描きを目指して、これは達成できなかった。絵を描くことは好きなことだから、できる限りに努力をしてきた。力は出し尽くしてきたと思う。それでも、絵描きには成れなかった。しかし、その結果、自分の絵を描くことに眼を開くことが出来た。絵描きになれなかったことを良いことと考えられるようになった。

 むしろ商業画家に成らないで済んだという、違う意味の心からの満足を得る事ができた。絵を売って暮らすなどおもしろくも無いと考えるようになった。絵を描くという根底にある、自分が生きるという意味に、向かい合って考えることが出来た。やれる限りをやってきたので、絵を描くと言うことの楽観を得ることができたのだと思える。

 日々の一枚を描く、と決めたならばなんとしてもやり抜く。決めたことが出来ないのであれば、力を出し尽くしたとは言えない。毎朝ブログを書くと決めたならば、必ず書く。毎朝動禅をやると決めたならば、必ず行う。のぼたん農園を完成させると目標を立てたならば、何としてもやり抜く。

 偉そうなことを書いているような気もするが、そういうことでは無い。自分なりに自分の命を極めるには、やりきることしかないのだと思う。やりきることは極めて難しい。千日回峰行であろうが、オリンピックの金メダルであろうが、やり切ったと言うことではない。問題は結果では無く、目指して生きると言うことだろう。

 すべてが強いこだわりである。どれ一つとっても、出来るかどうか分からない、限界まで頑張らなければ出来ない、たぶん出来ないことなのだろう。大変なことであると言えば言える。しかし目的に務かっての日々を実行できれば、安心を得られる。やり抜けばいくらかでも前に進める。そのうちつらさが消えている。

 前に進んでいれば、何とかなるかも知れないと言う楽観を得られる。生きる意味を問うことなのだろう。何で生きているのか。何のために生きているのか。そうか、生きている今を十二分に味わうことだろう。そう考えて、好きなことをやり尽くしてみることにしたのだ。

 好きなことなのだから、やることは少々辛くても、楽しい事でもある。そこで重要になることが、決めたことを継続することである。決めたことが続けられないと、希望を失う。どうすれば継続できるかである。絵を描くのも、ブログを書くのも、田んぼで草取りをするのも、やりたくてやれる。泡盛を飲むのと変らない。どちらかと言えば、おもしろくて止められない。

 私にとっては、動禅を続けることがいまは一番難しい。今日はやれないかなという日もやってくる。ああおっくうだと思う日もある。やっていておもしろくもおかしくも無いからだ。動禅だけは努力して、義務感でやるという感じだ。これを止めたら負けると思って頑張っている。これでは意味が無い。

 そこで動禅の工夫をしている。ともかくスワイショウだけは嫌でも行う。と決めている。最悪、スワイショウだけで止めても仕方がないと考えている。今までにスワイショウだけで止めたことは無い。スワイショウをやっている内にドーパミンだか、アドレナリンが出てくるのだ。

 八段錦の4段まではともかくやろうとなる。どうしてもだめなら、ここで止める。大抵は八段錦の終わりまで行くことになる。4段で止めて、太極拳をやることにする日もある。両方とも全部やれる日もある。動禅はどこで止めても良いが、スワイショウだけは意地でもやると決めている。

 こうしてブログに書くのも継続の手段の一つだ。ここまで書いてやれないのではまずい。ここでブログを書くのを中断して、動禅を始めた。何故動禅の継続が辛いかが分かった。気持ちよく動いていなかったのだ。腰のための運動とか、肺のための呼吸とか、目的を持つことが良くなかった。

 すべては気持ちよい動禅であれば楽しくやれる。何かのための禅は無い。禅のための禅だ。気持ちが良い動きにして行けば、やっていて楽しくなる。辛い動きは無くして行くことだ。考えてみれば、スワイショウだって昔は往復100回は辛かったのだ。今は気持ちよくやれる。それでいいのだろう。

 気持ちよくやれる動禅にして行くことだ。それならばやりたくなって、自然に継続できるだろう。気持ちの良い動きにする。辛くなったところで止めれば良い。45分の動禅が、半分で終わってもかまわない。気持ちよく楽しく出来るのであれば、だんだんに長くなり、ぜんぶできるようにいつか成れば良い。

 こんな風に楽観的に考えておけば良いのだ。何とかなると思って生きる事だ。昨日はみんなでお酒を飲んで楽しかった。酔っ払ってて大丈夫だっただろうか。路上寝は幸いしなかった。家まで干川さんが乗せてきてくれたのだが、あまり良く覚えていない。申し訳ないことだった。朝早くからおきてしまったのはいつも通りだった。

 
 

 

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