日本はどこへ向かえば良いのだろうか。

世界は2024年新しい局面に入ることがはっきりしてくるだろう。その時代の中にいると、なかなか世界の情勢を俯瞰できないが、すでにウクライナ戦争が始まった辺りから、世界が大きく変ったと思われる。それは新しい経済の状況が始まったと言うことがあるのだと思う。
日本でも岸田内閣は新しい資本主義を口にした。どうも新しいと言うより、明治時代の道徳のある資本主義を意味するらしかった。この次の時代を認識できない総理大臣で情けなかった。そして、ものの見事に新しい政策などどこからも出てこなかった。
日銀総裁が替わっても、経済政策は変ることもない。日本の停滞を深く印象づけた内閣だ。言葉では建前のきれい事を並べるのは美味い。一見悪くないのではと思うが、分かっている農業政策で言えば、まったく現実の政策は見えない。あるいは見せない。
世界が今までに無い変わり方を始めている。そのために、日本だけでなく、資本主義自体が行き先を見失っているのだろう。アメリカではトランプのような独善主義者が、再度選択されようとしている。世界一の資本主義国が中国に敗れる焦りだろう。日本もそうだが、負けるときは負けて良いのだ。
今世界に起きているのはコンピュター革命である。人間が作った機械が人間の能力を超えて行く中で、人間がどういう社会を作り生き延びることが出来るのかである。中国がアメリカを追い抜くのは、革命の時代の大きな変革で、古いものの方が、転換しにくいからだ。
人間がIT革命の行く先に恐れおののいている。それは蒸気機関の発明と変らない新しい世界への恐怖。人間の体力を越えた蒸気機関の発明が象徴する産業革命から、人間の頭脳を越えるIT革命である。写真機が出来たときに、肖像画家が戸惑ったように、今度はアイデアそのものが人間よりも機械が優れているということになる。
後数年すると、何かが大きく変るとは思うが、どうなるかはまだ想像しにくい。産業革命を拒否したキリスト教の一つのグループにアーミシュがある。アーミシュの暮らし方が何か今になって説得力を感じる。人間の本当の幸せというものはものではない。
電気も車も関係が無いという生き方である。義務教育以上は不要。本は読んではいけないとしているらしい。知識というものも、必要最小限で良いと言うらしい。もちろん自給自足である。世界に35万人くらいいて、小さな単位の共同生活をしている。
アーミッシュの生き方はそれぞれが選択して選んでいるものだ。18歳になると一度世間で一年程度暮らす。その後にアーミッシュとして生きるか、世間に出て生きるかを選ぶ。建物としての教会は持たない。アーミッシュは完全な自給自足である。もちろん有機農業である。35万人もの人がそれで生きていると言うことがすごい。
なぜ、世界の大きなIT革命という変化の中で、あえて過去に拘泥するアーミッシュの生き方を考えるのかと言えば、人間が自分の命を十二分に生きると言うことは、どういうことなのかを考えるからだ。アーミッシュの暮らしが成立しているのは、キリスト教という宗教があるからだろう。
いわば俗世界の中で修道院生活をしている人達のようだ。それは修道院という隔絶された中で、自分のキリスト教を守ることよりもさらに難しいことであろう。よほどの強い宗教心がなければ、自分を維持することは出来ないはずだ。仏教界を考えると、日本人の意気地なさを感じる。
世界が能力主義に進むなか、能力差を持たないでいられる人達がいる。非所有も貫いている人達。停滞を受け入れて生きて行く生き方はどこか参考になるところがある。次の時代の生き方をむしろ過去の時代に戻った人達の生き方の中に、参考になるような気がする。
しかし本を読まないというのはどうだろうか。賛美歌以外の音楽も受け入れないというのも残念なことだ。道元禅師の只管打坐の考え方は、修道院的宗教である。私はそれが出来ないで寺院を離れ、世間の中で禅的な精神で、一般の社会の人と共に生きると言うことを考えてきた。
電気も車も、スマホもパソコンも普通に使いながら、水彩画を描く。その先にある禅的な生き方を考えてきた。あるのかないのかはまだ分からない。ただ、どうも豊かな日々というのは、経済とは関係が無いようだ。好きな子を全力で行う。これは実に愉快だ。
資本主義では前より経済が良くなることが、すべてに善とされてきた。これがどうも違っていたのだ。前と変らないと言うことの価値観を考える時代が来たのかもしれない。いつも書くことだが、やはり江戸時代だ。停滞する社会の中で、よりよく循環することを考えて行く。巡り巡る日々の幸せ。
資本主義世界は拡大再生産が不可欠である。拡大が目標になる。しかし、拡大が人間の幸せにはならないことが見えてきた。それが21世紀だった。プラステックも人間の豊かな暮らしのためであったはずが、微細粒が海に漂い人間を滅亡させる原因になっている。
気候の異常も人間が暮らしやすさを求め、拡大再生産を続けてきた結果である。暑すぎて死んでしまう人が何万人もいる世界が、まともなわけがない。何かを間違ったのだ。豊かになろうとして、むしろ負の袋小路に突入してしまった。それなのにまだ競争を止められない。
人間は停滞を受けれなければならない。停滞の中で自分の幸せで、充実した世界を模索することになる。それは江戸時代の暮らしをもう一度見直してみることから始まる。自給自足で、自分の倫理をもち、思いやりをもち、変らないことを大切にする。
日本が世界の大変化の中で、どう変わって行くのかは分からないが、禅的な精神で自給自足をして行くことで、維持されるものがあると感じている。自給自足をしていれば、アーミッシュも私も農作物に対する気持ちは似ているだろう。水牛を使う伝統農業の魅力は家畜を飼うアーミッシュと変らない。
日本にもアーミッシュに似ているヤマギシがある。しかしその養鶏はわたしには認められなかった。実際のやり方が私とは随分違っていた。ヤマギシは山岸さんという方の養鶏業の人から始まった。それなら何故、自分の鶏種で養鶏をやらないのか。何故自給飼料で養鶏をやろうとしないのか。何度かヤマギシの人に聞いたが、その返事は研修を受けなければ分からないと言うのだ。それは言い逃れだ。
笹村農鶏園では笹鶏ササドリという自分で作出した鶏で養鶏を行っていた。自給飼料で養鶏をやろうと模索した。そうした努力をしないで、輸入飼料を使うヤマギシに何か欺瞞を感じた。鶏糞で日本の土壌を良くする運動などなかなかおもしろいとは思うのだが。
かなりヤマギシとは交流があったが、ヤマギシの人達は普通の人だった。むしろ世間よりも立派な人が多かった。オカルト集団ではない。宗教的な和和漢はなかった。武者小路実篤の主張した「新しいき村」の活動がある。これも現状を見ると少し違うと感じた。
次の時代を考える上で、一番興味を持ったのは、宮沢賢治のイハトーブの理想郷である。黒板のチョークの文字。「下ノ畑ニ居マス。賢治」今も宮沢賢治は下の畑で働いている。私は到底宮沢賢治のような素晴らしい人間ではないが、「下の田んぼに居ます。出」と言う気持ちでのぼたん農園に通っている。