ブログは批判的になる

      2025/04/24



 ブログを書いている人は、いつの間にか批判的な人間になるという意見が出ていた。確かに私は批判的な人間である。このブログも批判的に書いたものが多いほうだろう。しかし私の場合はブログを書いていて批判的になったわけではない。批判するためにブログを書き始めた。

 世の中おかしいことが多過ぎる、何とかしようということで友人5人「とピースカフェ」というミニコミ誌を始めた。ただ批判ばかりだと読んでくれないから、批判と面白記事を半分ずつにした。ミニコミ誌だけではなく、ブログでも連携しようということになった。ブログは批判精神を持ち続けるために書いているようなものだ。

 20年前のことだ。ネットで誰でも発信できるようになり、様々な報道が生まれ、新聞テレビは力を失うはずだ。それなら私たちも批判精神のある市民報道を行う必要がある。私的な報道を発信すべきだとして、書き始めた。予想通り大報道は批判精神を失い、SNSが選挙を変えた。
 ある意味ネット民主主義が生まれつつあるのだが、今のところ悪貨の方が目立つわけだ。ピースカフェを始めた頃の大上段の文章があったので、再掲する。
 
 「平和」について      ピースカフェ 笹村 出
一人一人が「へいわに日々を暮らす」ことから、平和は始まるのだと思います。
自由で、人間の尊厳が守られた生活を、安心して送ることの出来ることが、平和だと思います。
ピースカフェでは「やさしい暮らし、へいわな日々」を真剣に見つめたいと思います。
力で押さえこむ平和は、力の押さえがなくなれば、放火や暴動、略奪が起こります。
軍事バランスで保たれた、条件付平和は、高度な軍事競争を生み、かえって、危険な状況が迫ってきます。
どうすれば自分達の暮らしが、安心出来るか。世界の紛争はどのように解決すれば良いのか。日本の役割はどこにあるのか、一人一人の暮らしから、自分達の言葉で話し合って見ませんか。                                
2005年11月17日

 毎月1回17日にミニコミ誌を作り配って歩いた。その仲間の一人がこの前の選挙で、衆議院議員になった佐々木直美さんである。当時はあしがら農の会の仲間だった。その後ミニコミ誌からブログの連携に変わった。改めて調べてみると、20年前のことになる。

 あの頃はブログという手段に期待をしていた。2006/03/05 07 が最初のブログだから、ミニコミ誌とブログを連動して、すぐにやり始めていたようだ。世の中の悪と戦う正義の味方意識が強かったのだ。また期待とともに、ネットに対する危惧も大きかった。今あるSNSの陰謀論のようなものがネットで出現することである。

 悪いネットが広がらないように、ネットの中に正しい批判精神を作り出そうということもあった。特に鳥インフルエンザに対する社会の誤解を取り除くために、ネットで情報を発信してゆくということも、自然養鶏をやるものとして必要だった。結局は養鶏業は止めることにしたのだが。

 批判せざる得ないことがあるので、ブログを書き始めた。やはり、ピースカフェの仲間の石井武さんが、ブログの設定をしてくれた。ただミニコミ誌だったときも、批判だけでは読んでもらえないということで、例えば小田原で一番好きな風景特集とか、俳句だか川柳特集とか、おいしいお店特集などいろいろ取り上げた。

 イエローマップ金沢が私の頭の中にはあった。奇妙な金沢らしい冊子を友人が作っていた。今ではイエローマップといえば、防災地図のレッドが危険地区で、イエローが警戒地区になる。どこか外国の町の町案内が、黄色だったという。それでイエローマップは、面白街の情報誌。

 そんな楽しい雰囲気ののりで、平和を語りあおうということだった。ブログの連携は今はあるのかないのかはわからないぐらいだ。止めたという話はないので、私は内心ミニコミ誌ピースカフェを続けているつもりだ。平和への道に終わりはない。

 「批判的」である問題。3つの批判を哲学したのが近代哲学の祖カントである。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』を書いている。カントは18世紀ヨーロッパを代表する哲学者といえる。大学の哲学の授業でカントのことは学んだ記憶がある。認識論『純粋理性批判』、道徳の基準『実践理性批判』普遍的な原理から考え直した人。
 
 “批判”とは物事を“吟味”することにある。カントのいう批判とは、理性・感性などの人間の諸能力を探求することになるらしい。 「人間とは何か」を探求するということは「私は何を知りうるか」「私は何を為しうるか」「私は何を望みうるか」の三つになるとしている。

 その認識の根底には経験というものを位置づける。経験しなければ認識できない。その背景に批判的に見るということがある。農業のことのようだ。農業を行い認識するということは、批判をするということなのだ。考えただけでは何もわからない。批判的に考えて行うことで、収穫という結果が生まれる。

 平和についても同じである。平和というものを探求するには平和という経験が、認識が根底にある。東日本大震災の後、「ふるさと」の歌を涙ながらに歌った人は多かったと思う。失ったふるさとを取り戻したいという気持ちがあの大災害の後、多くの人の心に灯ったのだろう。

 絵を描くということも批判的な行為なのだろう。認識するということは観るということに始まる。観るということが認識に至らなければ、絵というものはあり得ない。絵を描くということで何ができるのか。何をするために絵を描くのか。何を望んで絵を描くのか。

 絵を描くという実践があって初めて、世界が認識できるということになる。観るという行為を、我が物にすることが、絵を描くという実践によって具体的なものになる。そういう個人の体験をブログで発信してゆこうと考えている。それぞれは小さなものであろうとも、庶民の体験が積み重なることで世論になる。

 世界は存亡の危機ともいえるほどゆがみ始めている。世界中が一国主義に後退を始めたのだ。要するに自分だけが良ければいいという考えを、国家の正義として表明する国が現われた。このひどい状態の原因は、資本主義の独善主義が極まってきたということだろう。

 これを変えなければならないが、世界の悪い流れが強すぎる。世界を変えることはできないのであれば、どこかにユートピアを作らなければならない。自分たちのよりどころに、心あるものが集まる必要がある。まず食糧に自給をしよう。そこから安心立命を。

 それがのぼたん農園である。のぼたん農園は自給自足のための農園である。一人が一日1時間働けば、食糧自給はできる農園を目指している。石垣島では苦戦しているのだが、4年目の冒険に突入した。冒険の同志を求めている。みんなのための一人になれる人を。

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