高齢化社会と人口減少

   



 人口減少は続いている。まだまだ序の口である。一方で高齢化社会が問題となっている。これもまだ当分の間続く問題である。これからの日本の社会で生きていく者がどのように考えればよいのか重要なことだ。政府は少子化担当大臣まで置いて、人口減少を止めようとしている。

 高齢化は角期の問題である。子供が2人産まれる時代に戻れば、人口は安定する。高齢化は終わるという事になる。100歳を越える人が増えて年寄りが多くなったとしても、それは高齢化ではない自然な良い姿だ。今の日本は1.4人くらいだ。もう少し減少するまで、人口が8000~6000万人ぐらいになるまで、それでいいように思っている。

 たぶん国民の過半数の人が少子化は困ったことだと考えているのだろう。なんでも日本の先を行くのがアメリカだった時代がある。アメリカがくしゃみをすると日本が風邪をひくと言われたものだ。今日本の先を言っているのは韓国である。韓国を見ていると日本がこの先どうなるのかが見える気がする。

 ーーー 以下引用「出生率が変わらなければ、3世代のうちに韓国の人口は現在の6%になり、大部分が60代以上の高齢者になるだろう」という内容だ。 韓国の人口は、2020年を基点に減少し始め、2100年の時点で、現在の5,164万人から2,678万人まで減少する。


 韓国を日本に置き換えれば、似たようなことが日本でも起こる可能性がないとは言えない。韓国が何故これほどまでの人口減少が起きているのかを考えてみる必要がある。韓国の出生率は0.7日本の出生率は韓国の倍ほどはあって1.3~1.5 である。

 韓国で出生率の下がった一番の原因とされているのが、就職難である。日本の場合有効求人倍率は、継続的に1以上の水準を維持している。一方、韓国の場合、求職者数に比べて求人数が半分にも満たない状況が続いている 。0.5と言う状態が続いている。

 就職が出来ないから、就職年齢の上昇が起きて、大卒の新入社員の平均年齢が、30歳を越えているのだそうだ。これではやっと仕事を得て、結婚して家庭を持つという年齢が30代半ばになるだろう。就職難は極端な進学競争となり、結果として学歴社会がうまれ、社会の階層化につながっている。大企業と中業企業の賃金格差が2倍といわれるほど格差が大きい。

 韓国は日本をはるかにしのぐ競争化先端社会なのだ。 徹底した能力主義を行い、経済成長を遂げ、日本を追い抜いた分野が生まれたのだ。競争が激化して社会の階層化が極端に進んだ結果、少子化が起きた。競争には必ず、勝者の10倍以上の敗者がいる。

 自分の未来に希望が持てなくなれば、結婚して子供を産むなどと考えない人が増加する。能力競争がどういう事になるかの一例だろう。社会が義すぐすするのも当然のことである。そのはけ口が反日で、反日が一種の踏み絵になっている。

 韓国が日本と違うもう一つの要因は、極端なソウル一極集中である。その為地方の衰退がはじまっている。競争の激化が効率化を求め、ソウル一極集中を招いた。世界企業である数社のみが韓国の経済をけん引している。そこに就職できなければ敗者になる社会。

 翻って日本のことを考えてみれば。少子化を抜け出すには競争化社会を和らげて行けるかである。どうやって能力主義を抜け出すかにかかっているという事になる。競争の結論が出てしまえば、社会の活力が失われてゆく。競争が大企業への就職というように、単一化させてはならないという事だ。

 農業や肉体労働で生きてゆくことも夢があるという社会でなければ、少子化になってしまうということだろう。農家の嫁取り問題は少子化対策である。地方の衰退は若い女性が生まれた土地から離れてゆくところから始まる。

 大企業に勤めなくとも、普通に生きて行けるという環境がなければ、社会は活力を失う。日本でも地方が消滅しかかっている。しかし、まだ元気のある地方都市というものは存在する。地方都市の周辺が消滅の危機にあるわけだ。

 盛岡だって、金沢だって、名古屋だって独自の活力を持っている。地方で暮らして行ける形を作り出すことが、日本全体の為だという事を国民全体の合意として形成しなければならない。特に東京に暮らす人が、まずそのことを合意しなければならない。

 地方の暮らしは農業と結びついている。地方都市がありその周辺に農業地帯がある。ある意味日本の地方都市は機能としてバランスがとれている。地方都市が東京と経済競争しない形を見つけなければならない。生活のインフラ。教育の多様性。医療の充実。地方都市と、東京が競争しないで共存するのでなければ、韓国の後を追う事になる。

 日本の場合まだ十分に間に合う。東京に暮らす人たちが、日本には東京だけでいいというような考えを持たないことだ。世界と競争してゆくためには、東京一極集中の合理性はある。しかし、国の政策として日本全体に機能を分散することを、社会の安全保障として考えてゆく必要がある。

 気になるのは京都の人口減
少が大きいことである。京都を文化都市として集中してゆく。東京にある機能を分散すべきだろう。京都の郊外に現在の国立博物館や国立美術館を移転したらいい。皇室も京都に戻られた方がふさわしいと思う。伝統芸能全般が京都で上演されるようになるといい。

 税金の都市集中がある。県民税は当然東京に集中している。ふるさと納税はある意味集中の緩和になっているのだろう。企業の地方分散にもっと力を入れてもいいのではないだろうか。地方都市ごとに特徴を決めて、移転費用など、政府が出してもいいのではないかと思う。

 日本全体が競争から、一人一人の暮らしの豊かさへ変わっていくことだろう。豊かな暮らしをすることで人間が育つ。都市ごとの教育も特徴を付けて、北海道ならば次の農業の先進地域になる。都会に勝る教育が地方の暮らしの中にあるという事を、見直す必要がある。

 東京で暮らしていたけれど、金沢の大学に行った。この4年間で得たものは生涯の方角を定めた。金沢に行って良かったと今でも思っている。地方の教育機関なら、大学寮の費用も無料で行けるというようなことを政府が考える必要がある。

 競争させなければ人間は能力を伸ばせない。これは間違った考えである。人間をもっと信頼することだ。人間は自由に生きるときにその能力を伸ばすことが出来る。自由主義とはそういうものだ。強制的ないやいやの競争の中で延ばせる能力は、自己本位の他人には迷惑なものばかりだ。

 金沢大学では稲作農家を支えながら、通っていた友人が何人もいた。その人たちから学んだものは実に大きかったと思う。金沢くらいの規模の街で暮らせた幸せを今でもかみしめている。今では大学が郊外に移転して残念なことになってしまったが。
 

 

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