運転免許の返納はしない。

   



 先日運転免許の高齢者講習の案内が来た。何だか突然来た感じなのだが、8月になれば73歳になるのだから、そういうことなのだろう。高齢者講習は老人は免許書の更新の前に受けなければならないというものなのだろう。すぐに電話予約をして下さいと赤く書いてあるはがきだ。なんとなく赤紙を思い出して不快だ。

 惚け老人にも分りやすくの表記でどこか気分が悪い。ぼけが始まっているのはそうだと思うが、すぐに予約しろと言われても、まだ四ヶ月も先の日程を田植えの最中に言われても、困る。田植えが終われば落ち着いて日を決める。と言いつつ面倒なことは先延ばしだ。

 一時老人の交通事故がやたら取り上げられた。御陰で不安な気持ちにさせられた。免許証の返納が奨励されている。そんなことを政府が考えるのは日本だけだろう。実際の海外の事情は知らないが、日本以外でそんな馬鹿げたことをしているとは思えない。運転の出来る老人がいることは社会としてはその恩恵を喜ぶべき事だ。返納奨励が国の事業として行われている日本は老人差別国である。税金の不正な使用だ。

 老人に対する人権侵害である。かつて国が正しいと考えて行った障害者の避妊手術の強制と考え方が似ている。老人という理由だけで車に乗る事を危険と考えることは間違っている。免許証が成人の権利として認められている以上、高齢者に返納を国が奨励するのは矛盾している。

 国は老人に対して運転能力の正しい検査を行えば良いだけのことだ。教習所や医師の判断で運転免許の禁止はあり得ることだ。それは老人には限らない事のはずだ。85歳以下の老人は事故を多く起しているという事実は無い。

 日本政府はその場の空気に反応して、気分で動きやすい。選挙制度が悪い。例の90を越えた元高級官僚の方が、車の故障で暴走したと主張して、親子を事故で死なせてしまった事件だ。あれ以来老人は運転はしない方が良いという風潮が広がった。老人は事故を起しやすいという事は事実に基づかない、まさに風評被害である。

 85歳以下の老人は医師から言われない限り免許の返納などしては成らない。免許を返納すれば、ボケてしまう可能性が一つ増える。老人こそ意識して活動的であるべき努力をしなくては成らない。これは老人個人だけの問題では無い。

 現代日本は老人の暮らし方が、国の維持の為に重要になっている。働ける間は働いた方が良いというのが、労働人口の減少期の日本の現実である。確かに若い頃より、能力は落ちたと思う。しかし、農の会で若い人といっしょに働いて、ついて行けないという経験はまだ無い。

 昔の日本では老人は隠居生活が当たり前の事になる。これは家督制度維持の為だ。翻って考えれば、隠居して人間本来の仕事に邁進しろと言うことだ。伊能忠敬である。隠居生活は私のようなもには有り難い。長年絵ばかり描いていて、何をやって暮らしているのだと顰蹙をかって生きてきたのだ。

 隠居だから好きかってしていても、当たり前に無視してもらえるようになれた。だからこそ、70歳からは今まで以上に自由に何事にもとらわれないで生きることが出来る。これから死ぬまでは自分のやりたいことだけをやれる。老人こそ活動的に、人間らしく生きる。

 活動的に生きるためには運転免許の返納などあり得ないことだ。交通事故を起しがちだから返納しろというなら、10代の若者から免許を取り上げる方が先のことになる。若い人の方が事故率は数倍高い。暴走行為や煽り運転など概ね若い人がやることだ。

 年寄はとろとろ走りの方が目立つぐらいだ。田舎ではその運転が正しい。カンムリワシも、イリオモテヤマネコもそう言っている。それを迷惑だと考える速度違反者がおかしいだけだ。

 老人に運転を止めろというなら、すべてのスピード違反している人は運転を止めろと言うことになる。法令違反の方がはるかに事故の可能性が高いのだ。制限速度を守れば、間違いなく事故は減る。カンムリワシだって、イリオモテヤマネコだって交通事故に遭わずに済む。

 これからアトリエカーで日本中を絵を描いてあるこうと思っているくらいだ。高齢者講習で運転免許を取り上げられたら、これほどの痛手は無い。まだまだ充分運転は出来る。若い頃と競べて、運転がおかしくなっているという自覚は無い。自覚が無いのがボケの始まりらしいから、自己点検はしなければならないが。

 これはまあ、自慢話になるが72歳に成って、ユンボの操作ができるようになった。上手とは言えないが、それなりに充分こなしている。72歳だって必要ならユンボの操作を覚えるぐらいは可能なのだ。年齢で一律に免許証の返納を推奨する国の判断は間違っている。老人は折角持っている運転免許にしがみつくべきだ。そうか自慢のためにいまからユンボの免許を取りに行くか。

 老人が衰えるのは、活動を減らしたときだ。人間の意欲というものは活動することで再生産される。控えめになれば、意欲は急激に減退する。意識して活動を続ける必要がある。少し努力をして始めたことが、活動している内に何でも無いことになる。たいていの場合、それどころかさらに他のことまで意欲が湧いてくるものだ。

 老人は家に居ろというのは早く衰えて死ねと言っているようなものだ。老人こそ家の外に出歩くべきものだ。といって社会に迷惑をかけても確かに困る。会社では管理職ではもう老害になるので老人はいらない。それが当たり前だ。どんな仕事も新陳代謝しなければ衰退する。

 それなら、倉庫の在庫管理に変わって迷惑をかけないで役立てば良い。偉そうな年寄が、偉そうな地位にいればろくなことがない。しがみついてでも下働きをした方が良い。新しく冒険に出発できれば最高だ。のぼたん農園を始めて見て、何とか冒険の目鼻が付くまで、元気で頑張らなければならないと張り合いが出てきている。健康にも一層気を配るようになった。

 人のためになれると言うことほどの生きがいは無い。後水尾上皇は徳川幕府に反発して退位して上皇になり、85歳まで生きて修学院離宮を造営した。自分の理想を残すためにいよいよ本領を発揮したのだ。やりたいことをやっていたから長生きしたに違いない。

 老人には老人ならではのやるべき事がある。私のように社会的には何も出来ないような人間であるとしてもだ。体験した小さな自給生活の形を残すべき価値があると考えて、のぼたん農園の冒険生活に、この後の人生の時間をかけている。

 若い生活のかかった人にはとても、自給農園を作る作業は出来ないだろうから、これこそ老人の役割だと思っている。一人でもやり遂げるつもりだ。世界が不安定化してくる。食糧の自給をそれぞれが確立することが出来れば、自分の生き方を貫ける可能性が高まる。ここに私なりの役割がある。

 自給の体験を出来れば、生き方を考えることが出来る。その場を作りだし、提供するのは役目だと考えている。そのことが、張り合いになる。老人でも次の世代の人の役に立てると言うことがすばらしい。免許の返納など考えもしない。72歳でユンボの操作を覚えたので、今度は西表でヤマネコの水場作りで役立てるかも知れないと思うくらいだ。

 老人でも免許を取るくらいの意欲が必要である。免許があれば活動の範囲が増える。特に都会以外では免許が無ければ、早く死ねと言われたようなことになる。どうしても老人の免許証返納が言いたいのであれば、都会だけでやればいい。東京など確かに免許はいらない。小田原でも石垣島でも運転免許が無ければほとんど行動が出来なくなる。

 老人の運転免許の必要性は、地方と都会ではまるで違う。まして地方の車の少ない、事故も少ない地域では、高齢者の運転免許返納の意味はまったく違うのだ。こんなことを全国一律に行うなど、行政の無責任と言わざる得ない。

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