檜原村で採取生活をしていた人が居た。

   



 檜原村の崖のような斜面に、しがみつくような家があった。その小屋には鮭が20匹は吊るしてあった。その小屋の前を通りかかったのは、窪川さんと山歩きに行った帰り道だった。もう40年も昔の話なのだが。その家がどういう家だったのかはずいぶん後になって、テレビ番組で知った。

 その時の山歩きは、成果のない移住先を探す山歩きで疲れて歩いていた。家を見ると、あれは貸してくれないものかと、図々しい想像を巡らせていた。その時の二人の考えたのは、あの小屋では暮らせないという小屋だった。あんなに不便な場所に家を作らなければならないとすると、この辺辺りに移住先を見つけるのは難しいと思ったわけだ。

 奥多摩駅まで戻ったところで、夕飯を駅前のいかにも昔の喫茶店でカレーを食べていたときに、直下型の大きな地震が起きた。震度5の直下型地震があった時、と言うことで調べればいつだかわかるはずだ。トラックでも隣の店舗にぶち当たったのかと、あわてて外に出てみたのだが、何もない。地震があんなに大きな音がする物だとは思わなかった。

 喫茶店に戻り、コーヒーを又飲むことにした。何しろ電車が不通になってしまい、当分来ないというのだ。それにしてもあの塩引き鮭は何故あんなに吊されているのかと言う話になった。鮭が奥多摩で捕れるわけがない。そもそもあの不思議な小屋は一体何者が住んでいるのかという話になった。

 奥多摩に行ったのは家探しであった。どこかに越そうとして探していた。ところが奥多摩の当たりの家は家墓である。墓があるので、人には売れないし、かさないという話だった。叔父の彫刻家の草家人の家も棡原にあるが、家にお墓がある。今は家に墓は作ってはダメなのだろう。草家人の墓は生きている内に作ったのだが、何故家墓にしたのだろうか。残された家族には手に余るであろう。

 その頃窪川君と私は二人で月に1回はこうして家探しに歩いていた。どこか山の中に入植しようという計画なのだ。何故そういうことになったのかはもう思い出せないのだが、その頃仲間で北都という同人誌を出していた。何でそんな物を出したのかも今ではよく分からないが、フランスから戻って久しぶりに会ってそんな話になったのだ。高校生の頃一緒に同人誌を出していたことがあったので、又やろうと言うことになったに違いない。

 その同人誌には窪川さんは映画批評。私は西洋美術史の10人というものを書いた。初めから10号まで出すつもりだったので、私の興味のある10人について書いてみようと考えていた。マチスとか、ボナールとか、ベラスケスとか、書いたのだと思う。まだ世間的には同人誌を作るというような活動はめずらしいものではなく。何しろ手書きの文章を、ガリ版の原紙に切ってくれると言う人が、三軒茶屋には居たのだ。手書きのガリ版刷りの雑誌である。自分で切ったページも当然ある。ガリ版刷りの作品というものをつくり、表紙や挿絵にしていた。

 そのうち、写真製版の機械が出てきて、タイプで打ったものを写真製版すると言うことに変わった。今度はその写真製版を利用して、こった作品を作っていた。もうあの雑誌もすべて廃棄したので幸いというか、どんなものだったか、どんな文章だったのか。見ないですむ。どうせ恥ずかしいようなものに違いないのだ。

 その雑誌の文章の中で、窪川さんが有機農業の話を書いたのだと思う。それで、東京を離れてどこか農業が出来るところに行きたいという話に自然なった。私は農業をやると言うより、絵を描く暮らしから逃れたいと言うことの方が強かったのだろう。

 そう塩引き鮭のことだ。あのとき全く不思議で終わった塩引き鮭が後々に、テレビで解明されたのだ。そこには自給自足の仙人のような方が、住まわれていた小屋だったのだ。何しろその仙人は元々は仕事で活躍されていたような方だったらしい。それがあるとき一切を放棄して、奥多摩の山の中にこもってしまったらしい。

 それを心配した友人達が、何か欲しいものはないかと言うことになる。すると塩鮭ぐらいがあれば十分だと答えたらしい。それならと沢山の友人が塩鮭を送りつけることになったのではなかったかというおぼろげな記憶だ。

 すると当然食べきれるものではない。そこですべての鮭を天井から吊して、何か吊せるところはすべて吊した。いただいたものは間違っても食べなければならないというので、ひたすら塩引き鮭を食べていると言うことらしい。あの鮭の釣るし干しの現場の理由がテレビ番組で分かった。いただいたものを捨ててはいけないのだ。これは印象深かった。

 今思えば、山の中で農業を始めようという二人が、奥多摩の山の中で採取仙人に出会っていたのだ。あのとき拒否されたと言うことでもなかったが、もちろん歓迎されたわけでもなかった。山の中で小屋を作り暮らしている人が居ると言うことで興味津々だった。自分ならもっとうまく小屋を作れぞ。あれこれ見せて貰った。

 ところがその人は農業はやっていなかった。この人が仙人であるのは採取生活と言うことである。頂き物が多かったのかもしれない確かどこか外国で暮らしていた人という話だった。その人の家は実に不便な作りで崖にへばりついたようにあった。農業をやらないと決めてしまえば、又暮らし方も違うのかもしれない。

 上野原の奥を歩いていたときにもっとすごい小屋に暮らしている人に会ったことがある。粗朶を立て掛けただけの家だ。左右に日本の長い棒を組み、結わえて建てる。そのY字部分に一本の長い棒を渡す。その棒に向けて木の枝が立て掛けてあるだけの家だ。つまり木の枝の屋根だけの家だ。沢山の枝がぎっしりと立て掛けてあるので、雨は入らないのだろう。中にも木の枝が敷いてあった。人ひとり寝るだけの家である。その人の説明では山に来たときはここに泊まると言うことである。

 その人は炭焼きをしている人なのだ。山で木を切り炭焼きの材料の準備をしている。炭焼き窯一杯の木が切り終わったならば、穴窯で焼くのではないだろうか。炭焼き小屋があると言うわけでもない。焼き終わったならば、又場所を変えて、どこか他の山に行くのかもしれない。不思議な暮らしであるが、実際にそういうひとにであったことがあるのだ。

 窪川さんは長野にひとりで越してしまった。老女がひとりで暮らしていて、孤独死した家だった。何で長野の山の中で、都会から老女がひとりでたどり着き、暮らしていたのかは不明である。そして歳をとり孤独死をした。見つかるまで時間がかかったらしい。

 誰もが気味悪がってその家に近づかなかった。住んでくれる人が居れば誰でも良いので住んでくれという話に窪川さんは乗ったのだ。その頃何故か仕事は大理石の販売であった。日本の大理石が売れるとも思えなかったが。

 その村で採れた大理石を製品化して、販売しようというのだ。レストランの調理の要の大理石などを作っていた。余り売れるはずもなかった。どだい窪川さんにセールスの仕事など出来るわけもなかった。その後大理石が商品になったという話はない。

 2年ほどして、窪川さんは八千穂の方に越した。あれこれ工夫をして随分大きな家を建てた。今もその家が、オリ座農園になっている。その窪川さんが13回忌であると言う手紙が奥さんから来た。今では奥さんが有機農業の仙女のようになっている。

 窪川さんが八千穂に越してから、さらに2年ほどしてから、私は山北の山の中で開墾生活に入った。八千穂は寒い。子供の頃育った山梨の藤垈も寒かった。寒いところは無理だと思い山北になった。

 山北で仙人になることは出来なかったわけだが、何とか人間には成れた。農の会という仲間が出来た。仲間が居なければ何も出来ないと言うことを学んだ。みんなでやれるようになったのは、ひとりでやれたからだと思う。

 今もみんなの農業に入れてもらえるのは、あの時一人の農業から、みんなのの農業に変わることが出来たからだ。小田原の農業生活もなかなか良いものだ。

 

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