センター試験国語記述式も中止
この木をデッサンしている。
一体文科省は何をやっているのだろう。いよいよ実施時期が近づいてきたら、国語の記述試験を中止にした。50万人の採点を公平にはできないと言うことがはっきりしたためである。しかし、そんなことは発想したときに気づき、対策案を提示しなければならないことである。
英語の外部委託試験に続いて、国語の記述式も中止と言うことになった。文科省の仕事の詰めの甘さは問われる必要がある。
国語の記述式テストは必要である。英語の中止とは意味が違う。英語などできなくとも、日本人として生きるためには問題が無い。日本人として必要なものは日本語で考える力である。英語で話せるとしても、英語で考えられる人を作ることは勉強では不可能では無いか。国語の意味はもっと深いものだ。
日本語で文章を書けば、その人の頭の中がかなり分かる。論理的に考えることができる人なのか、感覚が鋭い人なのか。発想が豊かな人か。だから、国語の記述式を止めると言うことはとんでもない話なのだ。
公平な採点などさして難しいことでは無い。公平は50万人から生じたことに過ぎない。共通一次では止めると言うことでいい。そのかわり、各校が行う2次試験では国語記述式試験に重点を置くべきだ。
英語の会話などは企業の要望であって、一次産業に従事する日本に暮らすひとであれば、会話できなくても生きて行ける。しかし、国語能力が高ければ、物事を深く考えることができるようになる。言葉というものは人間の考える力を支えているものだ。一次産業でも大いに役立つ。
今回騒ぎになった共通一次試験での問題点は、一次試験と2次試験との混同にあると思われる。2次試験でやればいいことを共通1次試験でやろうとしたから、訳の分からないことになったのだ。こんな簡単なことが文科省の官僚が分からないはずは無いから、制度の誤解なのかもしれない。何かわかりにくい。
一次試験は全国共通テストであり、いわば足きりの試験である。2次試験であれば、国語の記述式にしてもその公平性は大学の責任である。各大学の中で少人数であれば、何とか手をかけてできるのでは無いか。
一次テストで記述式をやれば、自己採点ができないという問題も出てくる。共通一次では一次試験を自己採点して、その結果で受ける大学を決めている。文科省の受験改革に対する姿勢が、どうにも理解しがたい。文科省には受験を得意とした人が集まっているので、間違いが起きたのかな。
2次試験で記述式を取り入れれば、採点も可能になる。方法としては三人が採点する。10点以内の差であればその平均点とする。10点以上の差があるものは責任者が別に採点を行い、その点数とする。この方法は50万人では無理であるが、1000人単位なら何とか可能である。
一人の採点に30分二人で一時間として、200人で100時間。1000人で500時間だ。採点に当たる人が、10人で50時間の仕事。1週間拘束の30人が採点を行えば、1000人の公平な採点が行える。
記述式試験は私が受験した50年以上前にもあった。倫理社会と言う科目の試験では、中世ヨーロッパの暗黒時代と呼ばれるキリスト教思想と宗教改革の関係を記述するものだった。思いきって、中世のキリスト教思想の方の立場に立って、宗教改革を否定的評価するものを書いた記憶がある。良く受験でそんな無謀なことをしたものだが、意図は理解してくれるものだと思って、大胆な考えを書いた。
記述式テストはその人間の思考能力が判定するものだ。思想信条価値観を評価するものでは無い。記憶偏重の試験よりも、大学での学習能力を見る上では重要だと思う。また、記述式試験が入試の中心で行われれば、論文を書く能力を高校の授業でも重視することになる。これは頭の訓練には極めて良いことになるだろう。
記述式の採点は確かに難しいと思う。だから足きりにあたる、一次試験で行う必要は無い。一次試験の意味と、2次試験の位置づけを明確にすればいいだけのことだ。それは英語の外部試験も同じである。
受験で一番おかしいと思っていたのは、私立大学の受験科目が3科目というような形である。昔もそうだったが、今もそうなのではないか。3科目以外は高校で学ばないでもいいと言うことになりかねない。面倒くさくとも、全教科を受験させる国立大学の受験の方が優れていると思った。入学金などのこともあるから、そもそも私立大学は考えなかったが。
2次試験においては英検のような外部試験を必要と考える大学は行えばいいだろう。その代わり、その受験費用は大学の受験費の中に含める。その費用は文科省が負担する。試験を作り採点するよりは大学は楽であろう。1次試験で絞り込まれていれば、それほどの費用にはならないはずだ。もちろん開催場所や時期は大学の試験に併せて行う。
今の大学というのは受験料でかなりの利益を上げているのではないだろうか。だから、採点の経費を節約して、多くの受験生に受けさせようとなるのでは無いか。
簡単な工夫をすればいいだけである。文科省の役人は上から目線のお役所仕事。受験生の側に立つことは無い。身の丈に応じて受けてくれればいいと考えているのは、大臣と同じである。大学に入りたいならそれくらいの無理はするだろうという程度だ。
石垣島の高校生の立場になってみろと言いたい。相当の負担である。自分の力で進学しようと考えたら、無理かもしれない。ここが一番の問題である。私が自力で大学に行けたのは東京に暮らしていたからだったと改めて思った。日本中の受験生が、同じ条件で無ければ、ますます地方に住む人は居なくなる。
それなら一次産業に就くなら、大学など行かないでもいいのでは無いかという考えもある。確かにそうなのだが、例えば農業をするとしても、農業を学問的に捉える勉強はした方がいい。私の場合は発酵については、大学に行き直したいぐらいだった。独学ではやはり、十分ではなかった。
石垣牛を飼う能力は実際にこの土地で牛を飼っている人が一番だと思う。その一番の人が、大学で畜産を学んで居ることは必要なことだ。加えて、同じ志を持つ良い友人に出会えるかもしれない。