東名あおり運転裁判地裁差し戻し判決。

   

 

 あのひどい東名高速のあおり運転が高等裁判所で差し戻しになった。その理由が地裁の裁判官が裁判で違法行為をしたというのだ。前代未聞である。被害者家族は2重に耐えがたいことになった。
 
 横浜地裁が公判前整理手続きの段階で、裁判官だけの話し合いにより「危険運転致死傷罪は成立しない」と判断し、弁護側と検察側に見解を示したことが問題だった。裁判員と協議することなく、このような見解を示したことは、「裁判員法に違反する越権行為だ」と高裁判決は示した。

  裁判官が法律を理解できない人ではたまらない。こんな程度の低い人によって裁判が行われているとすれば、冤罪など当たり前に起こるだろう。この事件にかかわった裁判員の方々は裁判官の冒頭の「危険運転致死傷罪は成立しないと」との説明をどのように受け止めたのであろうか。

 このような裁判員と裁判官の安定しない関係を見ても、裁判員制度が崩壊していることがわかる。裁判員制度は早く廃止した方が良い。それでも今回の裁判員は裁判官よりは正しい客観判断であったことは、高裁の裁判官が認めている。つまり裁判官の意見を無視して正解だったと言うことになる。

 いったい人を裁くということ自体に客観性が危うい。私は裁判員の裁判は拒否したいと思っていたが、これでは裁判官の判断も拒否しなければならない。まあ犯罪を犯さないことだが、勝手に裁判に巻き込まれることはあるから油断はできない。こんなことで日本の司法は大丈夫なのか。

 社会の劣化ということが言われるが、人間の劣化が司法制度にまで及んだということだろう。裁判官の裁判冒頭の説明は、狭い法律判断に縛られていた結果だろう。間違った法律であろうとも、法律は法律だということになる。

 しかし、現行法のもとでも危険運転致死傷罪が成立しうるという、社会情勢に合わせた判決を、高裁裁判官と、裁判員は下せるとしたのだろう。では地裁裁判では裁判官と裁判員はどのような会話があったのだろうか。興味を持つところである。

 裁判員という普通の市民が人の生死にまで関わるのだ。そのときに裁判官は裁判員を補助し、法を解説などするらしい。今回の事例では最初に、危険致死傷罪には当たらないとした判断を冒頭説明したと言うことはかなり決定的な判断である。
 
 普通の裁判員ではこの裁判官の意見に従ってしまうだろう。まさか法律の専門家より、自分たちの方が正しい法律の判断ができるなどと考えないだろう。だから、今回の事例は特殊では無いだろうか。世間の潮流に裁判員が影響されたとも思われる。裁判官は関わる裁判の報道などは見ないようにするらしい。

 多分横浜地裁の裁判官には越権行為のつもりは無いだろう。この難しい裁判を補助してあげるためには、最初に方の説明をする方が良いと考えたに違いない。残念ながら、危険致死傷罪には当たらないというのが法律の解釈ですよ、と指導したつもりなのだろう。

 世間はこのとんでもないあおり運転を重罪に処すべきという空気であった。死刑すらあり得るというほどあくどい犯罪に見えた。だからこそ、裁判官は法律の専門家として、あえて冒頭に指導をしたのだろう。

 その行為が違法だという自覚が無かった。裁判官が、法律を理解していなかった。しかし、冒頭に決めつけるのは違法だとしても、このように裁判官の判断を何かと裁判員に仕向けることはままあるだろう。そのような形式的なものであれば、裁判員制度などそもそもいらない。

 だから、裁判員制度は裁判官によって、その実態は動くと言うことになる。一体何のための裁判員制度なのか。こんなことは止めておかしな裁判官に一任した方がまだいい。地裁で間違った判決が出たのであれば、高裁で覆るはずだ。最高裁まで上告できるのはそのための三審制度だ。

 裁判員が死刑判決を選択した事例が、最高裁で取り消されることがある。これは裁判員が間違っ他判断で人を殺しかねなかったと言うことになる。普通の市民にとってこんなつらい体験はあり得るだろうか。人を裁くことは専門家に任すべき事だ。私がその立場であれば耐えきれない。

 誤りを改める事を恐れる必要はない。このまま、裁判員裁判を取り巻くひどい状況を継続することの方が問題をさらに深刻化させる。一日も早い裁判員制度の廃止を願う。

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