辞任は萩生田光一・文部科学大臣である。
萩生田氏はみごとに「身の丈」発言で、今回の入試改革が改悪であることを示した。そんな一言というものがあるものだ。民間会社に大学の入学試験を任せると、どんなことになるかを「身の丈」の一言で表現した。さすの政治家である。
そのおかげで、英語の共通テスト民間委託は延期になった。延期と言うが、もう無くなったということだろう。文部大臣を辞めて責任をとる方がいいのではないだろうか。受験生にしてみれば、11月になっての入学試験の変更である。大迷惑の責任で文部大臣が引責辞任ということではないか。
その昔の、貧乏人は麦を食え。発言した大臣も居たが、その人は総理大臣になった池田勇人氏である。今ではその意味はよく分からないだろう。麦の方が、お米よりも高い。何故高いものを貧乏が食べた方がいいのかということになる。朝食はお米よりパンという家庭も多いのではないだろうか。
民間試験に大学が試験を任せるというのは、どういうことなのだろうか。民間会社の方が良い試験をしていると言うことらしい。特に会話力のことらしい。大学には会話の試験をする能力が無いということなのだろうか。今の高校は会話の授業があると言うことなのか。
大学が入学試験をやる能力が無いのかもしれない。最近は大学とは名ばかりの、就職予備校のような所や、外国人の学生身分証交付所まがいもあるようだ。あるいは大学が学問研究のためのものであり、試験は負担ということなのだろうか。教育という本分はどこにあるのだろうか。
正直、なぜ民間委託の方がいいのかは分からなかった。それが一言「身の丈」発言で大体理解できた。そういうことだったのだ。試験を経済合理性の仕組みに組み入れようとしたのだ。試験を経済行為にすると同時に、大学というものを象牙の塔から引きだす。
試験も確かに商売である。試験でもうけを出している学校は多い。何度も入試をやる学校もある。入学金を早く取ってしまい、よその学校に行ってくれれば丸儲けと言うシステムもあった。今でもそうなのだろうか。滑り止めという奴である。自分のお金で大学は行くつもりだったから、入学金のある大学は無理だった。
身の丈に応じて大学に行くしかなかったわけだ。いつの時代もそうなのだろう。なぜ、良い発言したのに、謝罪して、撤回してしまったのか。これが法律違反の発言だったからだ。本音でいえば、身の丈だが、それを言ってはおしまいよ。教育基本法にある、教育の機会均等という建前に反する事に、文部大臣に就任した後から気づいたのだ。
第3条 (教育の機会均等) すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
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国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。 |
大学の試験を民間に委託した場合、教育基本法に反する可能性が出てくると言うことにつながってきたのだ。それで慌てて撤回した。しかし、よく考えれば教育の機会均等などどこにあるのか。教育は受益者負担ということで、国立大学の授業料が50年前の何十倍にもなっているのはおかしいことだろう。
70年代の大学闘争が分岐点だった。授業料値上げ反対で金沢大学でもストライキが打たれた。結局反対は通らず、授業料は当時言われたとおりの、何十倍になっている。これは良かったこととは到底思えない。法律違反が進んだのだ。
お金のないものは大学に行けないということになる。今の時代自分のお金で大学に行けるものはどのくらい居るだろうか。私の頃の金沢大学には自分で稼ぎながら大学に通うものが、いくらでもいた。
日本は豊かな時代に進んでいるのではなく、貧しい国になっているようだ。そうではないか、格差の大きな国になっている。お金のないものは「身の丈に応じて」教育を受けることが不可能になる。
大学教育は身の丈に応じて行なわれて居るというのが現実である。もちろんそのことは悪いだけではない。努力をすれば、切り抜けることができる範囲であればである。苦学生という言葉があった。経済的に苦労しながら学校に通う学生のことだ。
今は苦学すらできない時代だ。ここが問題なのだ。子供の貧困ということが言われる。貧困なんてどこにあるのかと言われるぐらい社会に埋もれている。気づかない人には見えにくい貧困がある。豊かに見える時代だからこその貧困。
それが身の丈という、嫌な言葉に表現された。貧乏人は大学に行くなとはいわない。身の丈を自ら知れということだ。身の丈を知れば、大学に行こうなどと高望みをするはずがないということだ。こういう封建的な言葉を持ち出すところに、アベ政権のもつ本質が現われているのだ。
もし、アベ政権がそんなことは考えても居ないというのであれば、萩生田氏は即刻辞任であろう。しかし、辞任させないであろう。それはアベ政権の閣僚誰一人として、本音では同じであるからだ。アベ氏など、そもそも身の丈など関係ないのだから、ちんぷんかんぷんな話であろう。
アベ氏が過去の総理大臣と比べても数段程度が悪いのは、この点なのだ。この点ではアベ氏には無理がある。苦学をした友人などいないであろう。身の丈が極めて高ければ、総理大臣になれるという事例だ。
教育は人間が人間になるためのものだ。経済のためだけにあるのではない。学問が尊いものであるのは身の丈など超越しているからだ。今年も日本人がノーベル賞を受賞した。日本人として誇りである。
今の日本の大学はノーベル賞学者を生み出すようなものになっているのだろうか。学問にも経済効果が持ち込まれて、基礎学問がおろそかになっていないだろうか。入学試験を英語の会話を重視して民間委託する。どうもこの背景にある考え方がおかしくなっているような気がしてならない。
英会話など、同時通訳機が遠からず、解決してくれる。あらゆる言語の壁が越えられる時代は、そこまで来ている。今更教育で英会話を重視するということが間違っているのだ。