教育の無償化反対
教育の無償化が言われている。反対である。自活する学生であったが、大学にいる頃もそう考えていた。義務教育は無償当然である。義務教育の義務とは、国には国民にたいして教育を与える義務があるという意味だ。しかし、大学教育は受けたいものが、応分に払えばいいことだ。奨学金による貧困ということを聞くがどうも実態が見えない。授業料は努力すればはらえる範囲の安さでなければならない。教育は低価格にするべきだ。生活費は大変だと思うが、これは大学に行くないものでも同じことだ。無料ほど危険なものはない。受ける方もいい加減になる。無償であれば国の都合の良い教育が行われる可能性も高くなる。教育はすべてから自主独立していなければならない。高等教育が極端に値上げされた原因は受益者負担の考え方である。教育は何のためにあるかと言えば、本人の為であると同時に、社会全体の為である。受益者は第一義的には本人にあるが、社会全体にも恩恵がある。ノーベル賞を受賞される方を見ていると、そういう姿が良く表れている。自分一人の為だけの教育であってはならない。字の読めない人がいることは社会として困ることだ。大学で学ぶような専門的な知識は、また別のことになるのだろう。
自分の暮らしが良くなる目的で教育を受ける。金儲け目的で教育を受ける。良い企業に就職する目的で大学に行く。個人的な目的だけの人間が増えてきたがために、受益者負担が当然という考えが出てきたのだろう。こうして、国立大学でさえ、私が通った頃からすると、数十倍の授業料になってしまった。確かに現状の社会は社会の為の教育になってはいないようだ。しかし、人間の為に、人様の為に学ぶ人も多数存在する。こうした社会貢献の加減ではないだろうか。利己主義者が金儲け主義の為に行く大学を無償にするなどおかしなことである。社会的に支援する必要など全くない。またさらに、大学に行きながらも、まともに学ぼうとしない人間にたいして、無償化というのもおかしい。しかし、世の中の為になろうという為に学問をしたいという人に対して、金銭的な障害があるという社会は良くない。
一律無償化にすれば、教育は劣化する。教える側もどうせただできている生徒だと思えば手を抜くかもしれない。人口減少が進んでいる。大学も入学希望者の定員割れ時代である。大学自体が競争の時代に入っている。定員割れ大学を、社会的に支えてゆく必要はあるのだろうか。外国人を名前だけ受け入れて、経営している教育機関が摘発されたことがあった。そうしたことが大学でも起こりうるだろう。授業料なしということになれば、ともかく人集めする大学が出てくるだろう。大学がデイサービスのようになるかもしれない。生徒が来てくれてさえすれば、補助金がもらえる言うことになりそうだ。老人医療を無料にしたら、病院が年寄りのたまり場になったという話がある。昔の国立大学は月1000円だった。今なら5000円くらいだろうか。私立大学なら10000円くらいか。
学問は人間を育てるのだから、長い目で見る必要がある。何の為の学問であるかと言えば、人間の為である。人間がよりよく暮らすためにすべての学問はあるはずである。学問は真理の探求である。真理を知ることで人間の暮らしが良くなるものであるという、大前提があるからこそ、学問を究めようとする。学問が人間社会の向上のためにあるという大前提がなくなれば、無償であろうと、有償であろうとおかしな結果になる。大学が産学協同となり、経営の為に基礎的学問がおろそかになる。この問題が解決されない限り、教育の無償化を先行させることは、悪い結果をもたらす。大学が企業の社員教育の場であるなら、無償化どころの問題ではない。小学校まで英語教育をやるような、おかしな方向に教育が進んでいる。企業の人材は英語が必要ということが主目的である。自動通訳機が完成すれば、無意味なことになる。教育はまず国語である。国語を学ぶということは、考えるということを学ぶということだ。人間完成の為に教育はある。