建設的ジャーナリズム
報道というものに問題解決能力があるかが問われている。情報をある意図を思って伝えるというのが報道である。例えば、報道機関であれば、日本の食糧自給率38%問題に関して、あらゆる角度から調査して、どうすべきかの結論を持ち、提案を社会に伝える。これが出来るとすれば批判精神のある問題解決型報道である。政府は一番情報を多く持っているだろう。情報分析の結果、他の重要な課題を尊重するためには、食糧自給率がさらに下がるとしても止む得ないと考えることもありえる。ここで報道機関は食糧自給の意味を建設的な課題であるのかどうか。分析しなければならない。食糧自給は国の安全保障であるという考えもある。そうした情報を伝えられた国民が食糧自給こそ重要だと納得できれば、政府に対して投票行動で意志を示せる。
こんなやり方が解決能力のある、建設的報道機関なのではないか。日本の未来社会を想定できなければ、何が建設的なのかの判断はできない。この建設的であるという事が、大企業にとっては、当面マイナスになる意見かもしれない。この時大企業は報道に対して、広告費を削減するという事になるのだろうか。最近、大手新聞社は記事の頭だけを無料にして、この先を読みたいなら金を払えという記事が増えた。そして無料で読める範囲を徐々に狭めてきている。有料でも読もうという人がいるから、これで何とかなるという判断なのか。独自の資金源が出来れば、経済的独立性を確保できるという事になる。情報が有料であるという事は当然なのかもしれないが、お金を払っても読みたいと思うような、新聞社の記事の頭出しを見たことがない。ネットにあふれている無料の情報以上の内容を新聞社は発信しているのだろうか。とするとネットにあふれている無料の記事の意味はやはり大きな意味がある。ネットにある様々なニュースや、意見を日々読んでいる。私も身の回りのことを日々情報発信している側面がある。これら情報もささやかな報道と言えないだろうか。
これで紙媒体が無くなるとすれば、それはそれでネットのもたらす合理化なのかもしれない。大きな流れとしては、かわら版のような手仕事から、ネットのような情報だけの伝達できれば良しとする両極に分かれるのだろう。必要とする情報は受け手によってまるで違う訳だから、すみわけも当然進むことだろう。人間が生きる場が、社会という塊である以上、必ず問題が生じる。その問題を整理し解決する役割が、政治、行政、司法、の三権に一義的にはゆだねられている。その三権を担う人々が、理想的で問題もないものであるならば、報道というものは無用なものなのかもしれない。しかし、権力は権力であるが故に必ず腐敗する。権力は監視しなければならない。ここにジャーナリズムの役割がある。建設的ジャーナリズムを考える場合、権力を批判的に監視する役割を見失えば、体制翼賛ジャーナリズムとなる。批判勢力としての報道の役割をそぐ目的で、建設的という言葉が使われるので気お付けなければならない。
もう一度食糧自給について考えれば、建設的報道という視点から以下の5つの観点でチェックすべきとある。1、独自の発想。2、具体的解決策。3、他の事例。4、なにが学べるか?5、できないとすればその理由は。
自給農の直接のささやかな報道という観点で言えば、独自の発想である。具体的な解決策は自給農だと考えている。他の事例はどうだろうか。食糧生産という意味ではいろいろ調べて入る。私のやっている自給農の体験から学べるものは多いはずだ。何故日本の社会が食糧自給出来ない理由はないはずである。できないのではなくその様な選択をしているという事だろう。気候的にも、農地の面積にしても、食糧自給はたやすい国である。農業従事者が不足するから、外国人労働者を入れるというのは、食糧自給ではない。自給農業者に農地の利用を認めるように農地法を変えない理由はどこにあるのか。大規模農業が出来ない農地は自給農業者が利用できるように農地法を変えるべきだ。自給できないという前提のまま、農産物の国際競争力という意味付けは何を意味するのだろうか。ここに政府の恣意的な農業に対する、企業優遇の発想が潜んでいないか。この辺を報道機関が調査報道すべきという事になるのか。