瞑想は危険があるかもしれない。
瞑想教室が日帰り温泉施設でも、開講されている。現代人の暮らしに何か役立ちそうな印象があるのだろう。本当は瞑想というものは結構危ういものではなかろうか。オウム真理教が信者の誘導に瞑想を利用していた。おおよその新興宗教が何らかの瞑想の類を用いて居る。瞑想が心の世界にかかわりがあるとされているのだろう。私の禅の師である山本素峰先生は指導者なく座禅をやらない様にと言われた。座禅を間違って行い、精神障害になる人を見てきたと言われていた。座禅は一人でやるものではないとも言われていた。山本先生は世田谷学園の座禅の先生であった。本当の禅坊主という人間が高校に現れたのだから、私には衝撃的だった。永平寺で長く修業をされていて、そのまま世田谷学園に現れた。異質な人間力に衝撃を受けた。人間も様々なものだと知った。山本先生の威力のようなものが何かは分からなかったが、こういう岩石のような力量みなぎる人間になるためには、座禅の修業が必要らしいと思うようになった。得度は先生に出会う前にしていた。
座禅のことは今も少しもわかった気はしない。徹底してやったわけでもない。最近は特段座ろうという気もない。ただ、座禅をやっていたころの心の在り様と、何かをしている自分が重なっていると自覚することはある。田んぼで草取りをしているとき、座禅をしていた時のようだと思う事がある。絵を描いているときにも、いつの間にか座禅をしているままになることがある。コロナの湯のサウナの中や、水風呂の中にいて、座禅をしているのと近いと感ずることがある。誓うという事は分かっているのだが。と言ってわざわざ座禅のような状態になろうとする訳ではない。突然そういう感じに入り込むことが最近ある。ボケてきたのかもしれない。頭の中が空白化している感じからしてボケなのかもしれない。中学生の時には禅は足が痛いという印象以外になかった。座禅は辛さを我慢するものだった。静かにしているという事自体が苦行のようなものだった。この無意味さと足の痛さという、馬鹿げたものを耐えきれれば何かになると思っていたのかもしれない。そんなおかしなことがある訳がない、まさに乞食禅である。
乞食禅とは何かを得るがために行う禅のことで、最も禅の世界から遠いものだとされる。だから、私は禅から離れた。何かになりたいが強すぎる自覚から、座禅をしていたらとんでもないことになると考えた。同時に何かを得たいがこれほど強い人間であるのだから、むしろそれを避けて生きることには不自然なこととも考えた。勉強をするというのは何かを得たいからだ。よく目的は分からないが、勉強をして成績が良くなり、良い大学に入る。これはまさに乞食禅だとも思った。目的のために努力することを良くないとする考え方に、行き詰まった。しかも、絵を描くとか。鶏を飼う。本を読むということさえ、やってはならない。となると、禅の方角に進む気にはなれなかった。高校という場に禅坊主が登場すれば、こういうことが起こるのだろう。世田谷学園という曹洞宗の僧侶育成期間の高校で、本山で評価された禅坊主は尊重せざる得ないのだから、何かつじつまの合わないところがあったのだろう。丁度大学闘争の時代だから、何が何やら分からない混沌の中に居ることになった。
何で経験を書いたたかと言えば、瞑想は安易に近づかない方が良いと思うからだ。座禅というものは、危ういところのあるなかなか大変なものと思うからだ。下手をすればオウム真理教になるし、高校生が勉強をしてはならないと考えるようにもなる。生活に役立つ範囲というような、具合の良い領域はない。瞑想は何かになるより、迷路に入る道になることの方が多いはずだ。極楽とんぼで生きているものが、本当の自分というものを見つめることになる。それを乗り越えるのはそう簡単なことではなかった。無であるという世界は実に厄介なことだ。しかもそれを頭で考えるのではなく、体感しろという事になる。ある意味指導者には都合の良い考え方で危険に満ちている。静かに瞑想すれば、日ごろの憂さが洗い流されるだろうとは私には到底思えない。まさか風呂屋の瞑想教室の奥にそんな怖いことがあるとはだれも思わないだろう。もちろんこれは営業妨害ではなく。瞑想の奥にある、すごい価値を認めてのことだ。