好きな雑誌の見つけ方。

   

権威ある雑誌というものがあった。雑誌に書かれたという事で、評価が定まるような雑誌があったのだ。雑誌の中に世界観が広がっていた。FMファーンという音楽雑誌はよく読んでいた。一ヵ月の放送予定表がある。録音チェックをこの雑誌で行う為にこの雑誌を買っていた。当時はクラシックファーンだったので、FM放送でリリークラウスのモーツアルトの演奏があるというのを調べて、それを聞くために家に戻る。あの頃はモーツアルトファーンだった。余りに大事で、これという時だけ聞くことにしていた。音楽好きの友人がいたわけでもないので、一人でその演奏をただ聞くだけなのだが。誰の演奏がどうだこうだというような、高いレベルでもない。ただ音楽を聴かないといたたまれない気分だっただけだ。蘊蓄も全くなかった。それでもFMファーンの音楽評論がどこか面白かった。季刊芸術は高校生の頃から買っていた。それが新刊で買うのではなく、売り出されてしばらくすると三宿の古本屋さんに100円で必ず出るのだ。今でも捨てられず全巻残してある。あの雑誌で現代美術と言うものの存在を知った。美術雑誌というものがなくなり、芸術論など存在しない時代になった。

大学の頃はアルバイトの収入があると本屋に行って雑誌を買うのが楽しみだった。本屋さんに行くのは雑誌を立ち読みするためだった。それで何か一冊買ってかえる。雑誌黄金期だったのだろう。愛犬の友と美術手帳と将棋世界を一番買ったかもしれない。情報は雑誌からではなく、ネットから得ることの方が多い。将棋連盟のホームページを見れば、昨日の羽生竜王の勝敗が分かる。棋譜も出てくる。講評もある。自分の見解をコメントすることさえできる。こうした社会の情報機能の変化の中、週刊誌ジャーナリズムはどうなるかである。文春砲と呼ばれる、スキャンダルの調査機能を高めて、新聞とは違う脇から足をすくうジャーナリズムの誕生したかにみえたのだが。新聞に持ち込んでも取り上げてもらえないような際物も、雑誌なら掲載される。雑誌の低俗化が、ジャーナリズムの健全性を保っているともいえる。雑誌を売らなければならないという必死さが、週刊誌世界の調査報道を生み出している。

雑誌編集者は新たな若い購買層を探すことは諦めているようだ。残ったパイをちぎり合っているのが現状であろう。中高年向きの雑誌の生き残りは健康志向である。どの雑誌にも健康欄がある。今でも何かないかなと、つい本屋さんの雑誌欄を一渡り見る。残念ながら、買いたい雑誌がないまま帰る。もちろん様々な健康本が溢れている。そこに週刊誌も割り込もうというのだ。こうした情勢の中、ネトウヨの雑誌化と言えるような傾向が新潮45に生まれた。 自民党の杉田水脈衆院議員の記事が掲載された理由だ。ざっと読ませてもらった。自民党議員の知性の低さを証明したような記事だった。ネトウヨレベルの鋭さもない。こんな国会議員も存在することが証明されたことは良かった。もう自民党はまともではないなと思う。しかし杉田氏を良いという層があるらしい。ご本人の話では自民党内にも、もっともな意見だとしてくれる先輩がいるという事だ。これだから新潮がネトウヨ化したのだろう。

今も継続して買っているのが、「現代農業」である。40年前から私を農業に導いてくれた雑誌である。三軒茶屋の甲文堂書店で出会った現代農業。現代農業を読んで、いつか自給農業を始めてみたい。鶏を飼うような暮らしがしたいという思いを高めた。きっと現代農業は今も若い人の灯台になっている気がする。自給農業を考えるようになったのも、現代農業を読んできたからだ。人間が精神の自由を保って生きることができる社会が遠のいている。日本もすでにそうなっていると思う。捨てられないで季刊芸術を今も持っているのは、こんな時代があったという証だ。良いものが存続が難しいのは世の常であるが、次の世代の人に申し訳の立たないことだ。私たちがだらしがないから、こんな事態になったのだろう。一寸の虫として、ブログを書き続けている。ブログであれば、お金がかからず自分の考えを発信続けられる。

 

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