水彩画の空の描き方
私にとって絵を描くという事は見るという事を意識化して、確認することのような気がしている。毎日田んぼをよくよく見ている。この見るという事と、絵を描く見るという事がどう関係しているのかと考えている。見るという事はまずは映像的に見るのは誰でも変わりはないだろう。映像として目に情報が入るという事である。例えば空を見れは限りなく青く透明なこともある。ではこの青い空をどのように描くかと言えば、一つのやり方としては、白い紙の上に透明感のある、セルレアンブルーを広げてみる。白紙が生きて、美しい透明のにじみが漂う。一見空の透明に似ている。ところが、この透明感は到底現実の空にある無限感を伴うような透明とは異質なものである。紙の上に作られた一見透明に見える疑似的に空を模したものに見えて、現実とはかけ離れたものである。空の持つ広大な宇宙まで連想させるような、意味を持たない空であるのに、広大な空間はまるで哲学を示したように存在している。
という事はこの宇宙的な空の透明感を、絵画の画面に置き換えてみようとする試みは。絵の具を用いて目に映るものを写し取るような方法では、到底及ばないという事に気づく。絵の具の透明感と空の透明感は別物と言わなくてはならなくなる。なまじ水彩絵の具に透明感があるがために、空の透明感と似ている、絵の具の透明感を反射的に使おうとしてしまう。画面において、この空の無限感を伴う透明を表すためには、全く別のやり方を必要とすることになる。たとえば、黒と青とのべた塗りによって、むしろ空の無限の明るい透明になることもある。これはもう、写すというのではなく置き換えるという事になる。見えている現実を自分の理解としてとらえ、それを絵の具ではどのように表すかという、意志的なものに変わる。写生ではなくなる。どうもこのあたりに絵を描くという神髄のようなものがある。見えるという事から、見るという意思的なものに進むという事ではないか。その見ているという事を意識化するという事の為に、見ているという世界がどのようなものであるかの確認の為に描くという事になる。こうなると空を描いているというよりは、無限というもの。自分の試行している無限というものに向き合うという事になる。
そのきっかけのようなものが空の透明感である。空の青が、美しいというのは、自分の世界観というものと反応しているからだ。雨が欲しいと思う砂漠の民であれば、黒い雲に滋雨を感じ、空の無限と世界の美しさを深く自覚するのかもしれない。人間が絵というものをみて、面白いと思うのはここにあるのではないか。そこには空を見る作者の見方があるからという事だからだ。ベネチア絵画の空の色が美しいのはベネチアの人の空というものへのあこがれのようなものまで描かれているからだ。しかし、ゴッホの麦畑の空を見て、涙する人もいるのは、ゴッホの空に人間の苦悩する思いが溢れているからである。ただ美しい空が好きな人もいれば、ゴッホの麦畑の空にすくわれる人もいる。絵を描くという事は自分が見ている事物を通して、自分の見え方を確認するという事になる。
日常的に見えているという事を、意識的に見ることを通して、自然の成り立ちのようなものを見抜く。それが絵を描く見るではないのだろうか。毎日、どのイネの株が良くなる株であるかを見ている。この先どうなるかの兆しが、どの株にはあるかを見ている。このイネの生きものとしての不思議が見えた様な気がすることがある。今は弱そうだが、きっとよくなる株だとわかることがある。得も言われぬことが経験を積むことで見えることがある。ランチュウの頭の煙が、良い瘤になる吉兆であるように、見える人には見えるという世界がある。この世界こそ、見る人それぞれの持つ傾向であり、性格なのではないかと思う。この得も言われぬ見えるを絵に描いてみたいのだ。絵を描くという行為を通して、見る力量を上げたいと考えているのだ。去年の苗の色と、一昨年の苗の色と、今年の苗の色の違いを思い出すことができるのは絵を描いている自分だからできることである。この絵画力を通して、とことんイネを見てやろうと思っている。