2045年の人口は1億人になる。

   

2045年は生きていれば、95歳である。その頃の日本の人口は1億人に戻るという事だ。日本の人口が1億人を超えたのは1966年とある。高校生の頃、今日あたりだとか言われて、話題になった記憶がある。私が生まれた、昭和24年は8100万人とあるから、日本の人口は増えすぎたのだ。何とか人口は8000万人以下まで下がらなければうまく行かない。政府が人口減少を問題にする理由は産業の国際競争力。人口が減少すれば、外国人労働者までお願いしようというのが、政府の考え方である。全く日本の方角を誤っている。企業的な発想がすべてを支配している。そういえば戦争に勝つためには産めよ増やせよという号令まで言われた訳だ。企業には有利であろうが、国民全般にとっては有難いことはない。国民の多くがすでに人口減少は悪いことだと刷り込まれているのではなかろうか。企業の活動が衰退したら、自分の暮らしは大変なことになると思い込まされている。全くそんなことはない。人口が徐々に減少する過程は、苦しいはずである。それは、人口が徐々に増加する時期、バブルに浮かれたことの、お返しなのだから止む得ないことなのだ。

国力というものを人口の増加というものだと思わされてきた。一家にしても子だくさんの家ほど、豊かになれた。今も、産めよ増やせよはセクハラだそうだが、人口減少こそ美徳なのではないか。人類の安全装置が自然に働いて、何かおかしくないかという空気が、人口減少に進んでいるのだ。日本の国土に1億人以上が暮らしているという事がおかしいのだ。それは普通に暮らすには無理なことなのだ。外国に依存した部分がどうしても生ずる。ここ50年は外国に物を売って暮らしてきた。貿易立国である。その背景となったものは、農村で余る安くて勤勉な労働力と抜群の技術開発力とが相まって、世界の市場で有利に働いた。そして当然のことだが、日本の高い労働力になり、当たり前の技術力になった。貿易立国といってもなかなか大変な環境にある。自動車が自由化になったらば、日本の自動車産業は壊滅するという人もいた。ところが、あの頃の日本はまだ有利な条件下にあって克服できた。この先どうかは疑問だ。

いまさら人口が増加すれば高度成長に戻るとはだれも思わないだろう。下り坂の歯止めになるという事の期待に過ぎない。行政はいろいろ上手く行かない原因を人口減少に置いている。最近までごみ行政でも人口増加を前提にして、ごみは増加してゆく。それをどうするかばかり考えていた。ところが年々ごみは減少している。減少は良いのだが、ごみ処理をする税収という費用の方も減少している。何とか税収を増やすという事を考えるから、人口増加である。ごみは各自が出来るだけ出さない時代に進めばいいだけだ。過去の経験を引きづっていて、発想の転換が出来ないでいる。ごみも減る、人口も減る。財政も苦しくなる。地方の行政はその中で昔のようにごみ処理を各々が行うという利点の復活を計ることだ。行政サービスの意味を変える必要がある。何でもやる課ではなく、何でもお任せする課である。行政のやるべきことと、やるべきでないことを明確にする必要がある。行政はサービスはしないで良い。

日本の方角は、貿易立国から自国主義に戻るべきだ。鎖国とまではいわないとしても、日本は自立して成り立つ国になるべきだ。この自国主義はトランプのように世界を凌駕するというような発想ではなく、日本らしく、小さく安定する。穏やかな文化国家になるという事だろう。人口はまずは8000万ぐらいで落ち着くように徐々に持って行く。都市の人口過密と、地方の過疎をどのようにバランスをとるか。地方で普通に暮らせるようにすることだ。地方でも子育てに有利な状況を作る必要がある。8000万人まで減少しても、食糧自給が可能な農地を確保する。その為には、食糧自給をしたい人には可能な農地の在り方に変える。大規模機械化農業が可能な農地と、小規模で誰でも使用可能な農地に変える。放棄されてゆく農地は国が保有する制度を作る。今よりよほど良い国になるはずだ。人生100歳時代だというから、もしかしたら見れるかもしれない。

 

 

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