水彩人北陸展
左上のたて構図の絵と右下の横構図の絵を描き進めて出品した。この段階では現場での写生だけである。この絵を何とかアトリエで制作というものをしてみようとした。松波さんに言われていた絵を作るというつもりで制作してみたらどうだろうと言われていたことが、頭に残っていた。この後どう変わったのかは、今はよく思い出せないのだが、自分の中では絵が少し進んだ気がしていた。絵を送ったのが、1月9日だった。展覧会が15日からで、連日満員の盛況だそうだ。北陸の冬の展覧会で、観に来てもらっているというのは何ともありがたい。私も今日これから出発して、今日明日と会場にいる。皆さんの感想を聞いてみたい。誰かに会えるだろうか。たて構図の絵は篠窪の耕作地である。秦野丘陵の斜面にある畑だ。10年以上通って描いている。耕作をするという事がどういうことなのか。又放棄された畑がどうなるのか。通いながら見てきた。自然と人間のかかわりのようなものが面白くて見てきたのだと思う。
もう一枚の絵は石垣の名蔵湾の展望である。最近はこの場所で描くことが多いい。石垣では1月の今頃に代かきをしている。一日ごとに水が広がり、空と田んぼとが同じになる。この空間を描いている。色面として画面を描くのではなく、空間が自分の空間になるように描いている。これがある意味奥行きのある空間があらわれる原因なのだろう。画面に疑似空間を作りたいという事ではない。自分の頭の中にある、空間のようなものに近づけたい。頭が思い描くものだ。眼を閉じてみる景色のことだ。思い出す人の顔でもいいのだろう。ここにある空間を繰り返し意識しているようだ。それは夢のようなものだが、夢とはまた違う映像が現れる。現れた映像を画面と行き来しながら、追っているのだろう。これがなかなか近づかない。ただ、こうかもしれない、こうではない。とわずかずつ進んだ先が、描かれた絵のような作品である。今回はそれが一歩頭の中の景色に近づいたような気がしている。どうだろうか、絵を見るのが楽しみだ。
まあ、良く分からないのだが、いわゆる自分の中にある絵というものにではなく、記憶の中に近づけようとしている気がする。ある時、ある一瞬にはその自分の中の映像と、画面が同調したような達成感があった。それはある種の陶酔のような世界なのだが、当然醒める。そして何なのだろうとまた画面を眺めている。近づいてゆく自分の世界というものがさしたるものではないという現実。夢想する芳醇な絵画世界は、マチスやボナールや中川一政氏が混然となる世界なのだが、それとは違う当たり前の平凡な自分というものに向かい合う。それで良いのだと思いながら、白けるような気分も伴う。やればやるほど、ただの自分になる。面白くもおかしくもない自分になる。それでいいと思いながら、その自分を深めてゆく、あるいは探ってゆく方法としての、絵を描くこと。そして、現実に何でもない絵というものができている。その絵がせめて借りてきた世界ではないこと。絵空事ではないこと。そいう事を期待しながら、北陸展に出かける。
絵があるというありがたさ。金沢の冬の馬小屋のアトリエで絵を描いていた時に一瞬に戻る。笠舞の下宿で目覚めたのかと思う今朝である。一歩の前進もないままの自分である。前進は出来た訳ではないが、自分というものの変化は目の前の絵である。これがありがたい自己確認。絵はお前はそんなものに過ぎないと教えてくれている。小学校の時に描いた都会の暮らしという絵を思い出す。お風呂のガスボイラーを描いたのだ。藤垈では薪で燃やす五右衛門風呂の係だった。東京の家はガスボイラーだった。その前にテーブルがあり水道があり、暮らしている。暮らしを描くというテーマだったので、その違いを描いた。根津壮一先生が、その絵をどこかの絵の展覧会に出して。何かの賞をもらった記憶がある。あの時描いた絵と、今描いている絵は何か違うのか、同じものなのか。同じであるような気持ちの方が強い。自分という人間の11歳と、68歳は同じ人間であると同時に、生きてきた57年間が自分というものに加わっている。子供の自分はよい絵を描きたかった。良い絵がどういうものかなど分からないから、見ているものが正確に描ければ、せめて分かるように描きたいと思っていた。そしてやはりうまくいったと思えたことはなかった。今も、どこかへたどり着こうとしている自分がいる。