家畜と動物虐待

   

家畜を飼うという事が動物虐待だと思っている。養鶏業で暮らしてきた人間である。きれいごとで誤魔化すわけには行かない。養鶏業は生きものを飼育して、それを食べてしまうのである。どのように都合よく考えても動物虐待である。どれほど良い環境で飼おうが、その根底に殺していただくという事がある以上、動物虐待の意味を逃れることは出来ない。人間が生きるという残虐の罪を引き受けるつもりだ。工場養鶏ではないなどという事は、すこしも言い訳にはならない。どれほどかわいがって飼おうとも、むしろかわいがって飼うがゆえに、それは残虐な殺戮が最後に待っている。いや私は殺さず死ぬまで飼ってという人も居るだろう。しかし、動物を飼うという事自体が動物虐待ではないと言い切れるだろうか。人間が生きるという事が、すでに他の生きものを食べなければならないという必要条件がある。菜食主義者だからなどということも少しも変わりがない。耕作地がどれほどの生きもの命を奪っていることだろうか。砂漠化がどれほどの動物の命を脅かしているのか。人間が生きるという事はひどいことである。ひどいことを悲しむより、少しでもましことをするという以外にない。

羽毛は動物虐待ではないかというコメントがあった。その通りだと思う。生きた水鳥から羽毛を剥ぎ取り、また生えてきた毛をまたとるというようなことをするのだ。それでも私はダウンは良い素材だと思って使っている。着心地、保温性共に素晴らしいと思う。最近の中空繊維など、羽毛以上だというが私の使ってみている物は劣る。革靴の方が、合成皮革の靴より良いと思う。人間が生きるという事は他の生きものを利用するという事に繋ながっている。家畜は人間の為に飼われている訳で、どれほど大切に飼おうと家畜である。動物園というものは耐えがたいものだと感じる。養鶏業をやってきたからそういう事を感じるのかもしれない。動物園は人間の残虐の証のようなものだ。見世物のように檻に入れられている動物を見ると哀れに見えてしまい、私にはすこしも楽しめない。猿芝居を一度残虐行為だと気づいたら、もう楽しんでみていることは出来ない。パンダのように自然では絶滅するものを飼うのは許されるかもしれないが、それを眺めて楽しむことは私にはできない。

鶏を家畜として飼うという事は、どのように都合よく考えたとしても動物虐待である。せめても、大切に食べてあげることだと考えてきた。人道主義者と言われるショバイツアー博士は人を助けるために、病原菌を殺すのは許されないのではないかと悩んだそうだ。小学校の教科書でこのことを読んで以来、今でも忘れられないでいる。どのように考えればいいのだろうか。未だ結論に至らない。確かに命に軽重はない。命を頂くという意味では、菜食主義でも命を頂くことになる。植物の命だから許される範囲というのは、自己保身的な考え方に過ぎない。もちろん健康のための菜食主義であれば、そういう意味ではないのだろうが。牛を飼い、牛乳は良いが、肉はいけない。果たしてそういう事だろうか。牛を飼うという事は構わないのだろうか。厳密に考えるとすべては絡み合っていて、思考を複雑化してだから、何でも構いやしないとなりがちである。羽毛は良いのかという事に戻る。

羽毛は生きたまま羽を何度もむしり取られているから、ひどい動物虐待であるという考え方だと思う。大事に飼い、一度だけ羽毛を取るなら良いと言い切れるだろうか。この考え方であれば、肉を食べるために家畜を殺すことは仕方がない。この殺した動物の羽をごみとして捨てた方が良いという事にもなるのか。殺す以上できる限りすべてを大切に利用させてもらう方が良いのではないか。人間が生きるという事は、残酷なことだ。肉も利用することを認めるのであれば、骨まで大切に利用する。羽根を利用するのは悪いことではない。生きたまま何度も羽を抜き利用するのは、さすがに許されないという事になるのだろう。羽毛がいけないのではないのだろう。牛革なども同じである。野生動物の皮は確かに良くない。肉利用に伴い皮を廃棄するのも良くない。使えるものを廃棄するのは良くない。飼っていた生き物を殺すという事は人間に影響をしてくる。自分の飼っていた鶏を殺すという事を自分に課すことが、鶏を飼うものの罰のようなものだ。辛いことだった。だからできる限り自分で行った。結論ではないが、ひどい人間であると自覚しながら、革靴も羽毛服も私は使う判断である。

 

 

 

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