人間とかかわると面白い
人間はけっこう面白いと思う。自分という人間を探る面白さとということもあるが、人間の関係性のほうがさらに面白い。そういう性格なので、一人でやるというのではなく、何でも大勢でやるという道を選択したのだろうかと思う。いくつかの集まりを作りかかわってきた。今都美術館で開催中の水彩人もそうである。昨日稲刈りをしたあしがら農の会もそうである。美しい久野里地里山協議会、有機の里づくり協議会、生きごみくらぶ。こうした集まりも立ち上げからかかわった。面白くしたいから始めるのだから、面白くなければかかわりを止める。私のやることは別段いつ辞めても、何の問題もないことばかりだ。結局のところ、人間とその関係が面白がっているという事になる。実は人とかかわると、重いことも多いい。嫌な思いをすることもある。それでも、人間が生きるという事は大半が助けられているのだと思う。助けられて生きる、その有難さ尊さを思う。自分がやれることの何倍も助けれている。
昨日、一昨日と8時から稲刈りである。田んぼをやっていればよく分かる。一人で20ヘクタールをやる人がいる。農業のスーパーマンだ。しかし、仲間がいれば素人が楽しみながら、20ヘクタールやることもできる。一人でやるよりみんなでやる方が好きだ。人間は人の為の方が頑張れるという事もある。そして助けられているという事を知ることができる。助け合いによって、一人でやるよりみんなでやって良い田んぼになれば、嬉しさもみんなの分が重なり合う。自分ができることで精いっぱい頑張る。それは必ず不足はする。それを補い合うのが、人間なのだと思う。それがうれしいし楽しい。頑張るというのは自分の為だという事が分かると、人間がもっと面白くなる。その努力の道なのだと思う。世間は能力競争を当たり前として動いている。この価値観は間違っているのだが、資本主義世界はそれを人間を切磋琢磨する要因とし、受け入れている。確かに競争があるから人間は努力をする。自分のための努力ではまだまだなのだと思う。人の為に努力できるようになった時に、さらに成長できるのだと思う。評価されるための努力というのは、十全ではないのだと思う。
敬老の日前後には100歳まで生きる人が増えるという話をよく聞いた。私にも100歳まで生きる2%位の可能性があるようだ。少ない可能性ではあるが、計画だけはそのつもりで進めて置かなければと思った。今わかることは70歳までは自給農業を一生懸命にやりたいという事である。養鶏業をやれるのは65歳までと思っていた。何とか1年延ばして辞めることができた。食べ物を作り販売するという責任が取れない不安を感じたからだ。自分だけが食べるものであれば、死ぬまで鶏は飼える。養鶏を止めた時に三線を始めた。歳をとってもやれることを始めてみようと考えた。2年間ほぼ毎日手にしている。三線を始めて音楽仲間が出来た。これが楽しい。みんな大先輩なのに、素人の私を温かく受け入れてくれて、仲間にしてくれている。一人で唄うより、みんなで唄う方がはるかに楽しい。それが人間なのだと思う。
いよいよ畑も出来なくなったら、絵ばかり描いて生きるつもりだ。どんな絵にたどり着けるのかはまだわからないが、私絵画というものを突き詰めてみたいと思っている。描画禅という方法ではないかと思い始めている。絵を通して自分というものを探り作り上げ、まっとうする。私のように、結果の見えないと意味をとらえられないものには、こういうやり方しかないのかと考える。本来曹洞禅では、歌を唄う事も、絵を描くことも、学問をすることも、良くないこととされている。その為に、私のような俗物人間は離れざる得なかった。形あるものに頼って自分を探そうという事を、災いとしているのだと思う。しかし、その禅宗でも座禅を一人で行ってはならないとしている。みんなでともに座ることで、正しい修業ができるとしている。やはり、人間はみんなでいて人間だ。絵を描くことももちろん一人でやるとおかしなことになると考えている。