あしがらの田んぼよいつまでも

   

久野の田んぼが未来永劫作られていてほしいと思っている。それが日本人の暮らしの原点だと思うからだ。私をよく反日的だというコメントが来る。そんなコメントをする人はアベ政権支持者で、アベ方式の瑞穂の国主義者なのだろう。小学校で教育勅語を暗唱するようなことを、日本的であると考えているのだろう。日本とは何かの考察が必要である。日本人とは「田んぼをする人たち」と名付けてもいいのではないかと考えている。縄文後期から少なくとも3000年間田んぼをやることで日本人は作られた民族だ。日本は武士の国というより、稲作民の国なのだ。1割の武士を武士道とまで崇めて、本質を見誤ったのが明治日本だ。その末裔が今のアベ式日本主義者たちだ。本来の日本は90%の百姓の稲作から産まれた国に違いない。その日本的稲作は類まれな、暮らしと一体化した農業を生み出し、日本人らしい特徴を作り出した。生き方や信条は稲作という共同作業から生み出された。信仰を生み出し、日本人を作り上げたと考えている。そういう意味で自分こそ稲作日本主義者だと考えている。

久野の田んぼはいつまであるだろうか。このままでは10年位で大半は無くなっているのではないかと思っている。それは経済的な競争に勝てないからである。今かろうじて継続されている意識は、農家としてご先祖様から受けついだ田んぼを維持しなければならないという気持ちではないかと思う。そういうものがいくらかでもあるのは、我々の団塊の世代までだろう。田んぼの維持はご先祖という意識がどれほど強くしみついているかにかかっている。あと10年というのは私が77歳になるという事で、もう田んぼはやれないだろう。たぶん他の人も平均的にはそんなものではなかろうかと思う。悲しいことであるが、それが一般的なことになるに違いない。20年前は農地を借りるという事が、極めて難しいことだった。荒らしてあっても人に貸すなど取られるようなものだという、気持ちが根強くあった。今もそう考えている人は少なくないのだが。

次の世代の人は貸すことで、農地が耕作されていた方が良いという人の方が多数派になってきている。だから、借りる農地に困るようなことはない。貸借の関係は今1反1万円くらいのものだ。昔はあった標準小作料というものが今はない。つまり経済的成り立つ貸借の価格というものが、現実的ではなくなったのだ。無料ではお互いに良くないので、一応金銭のある貸借関係を作るという意味が強い。もちろん、昔の意識の人も多数存在するので一概には言えないのだが。田んぼを5畝やって、250キロのお米をとる。そして自分の家で食べる。250キロを購入すれば10万円くらいだろうか。年間10日は働くだろう。地代、苗代、農薬代、肥料代、機械代、どう考えてもお米は買う方が安い。こういう中で田んぼをやり続けるには田んぼやりたいという気持ちが必要になる。経済性を超えた気持ちを次の時代にどのように取り戻せばいいかである。

足柄地域においては、自給的稲作以外に田んぼを残す方法はないのではないだろうか。久野に暮らす人の1%の人が、つまり100人が田んぼをやってみようかと思えば、久野田んぼは続いてゆく。小田原の田んぼは1%の2000人が田んぼをやってみようかと思えば続いてゆく。足柄地域では3000人の人が田んぼをやってみようかと思えば、続いてゆく。今までの経験から、日本人には、というかどのような民族でも1%の人は田んぼをやって見たいと考えるような特殊な人は居る。市民農園を見ればわかる。そのやってみたい人が近所で気軽に田んぼを出来る仕組みさえできれば、あしがら地域では田んぼは維持できる。これは、仕組みの問題である。政府と行政の努力次第だ。アベ政権が瑞穂の国美しい日本を目指すと主張していたことを思い出してもらいたい。アベ夫人は確か名誉校長のほかに、米作りもしているのではなかったか。武士の方の日本主義でなく、百姓の日本主義を思い出してほしい。

 

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