映画「沈黙-サイレンス-」
「タクシードライバー」のスコセッシ監督の最新作。タクシードライバーは衝撃を受けた作品だった。今回も待ちに待って見に行った。今もその余韻が残り、何かすごいものに出会ったという感情が、自分の底に漂っている。映画というものの人を変えてしまう力、つまり芸術としての力量を改めて知る。この作品は日本の隠れキリシタンと、ポルトガルの宣教師の話である。厳しい弾圧と殉教。そして、信者を救うために信仰を捨て転ぶ宣教師。江戸時代の長崎の日本に起きた、政治的統治と宗教の問題。それは、一向一揆や島原の乱にも見られた、今の日本人には想像しがたい、宗教的感情の沸騰する時代。戦国時代という激動の中で、江戸時代という徹底した封建社会が形成されてゆく。その中で日本人の精神構造に大きな影響があった時代。この映画は当時の日本社会を腐敗の毒が湧いて来る沼地と表現している。江戸時代に入る前の活発な日本人が、どのように幕府に統治されてゆくかの精神的葛藤でもある。
ポルトガル宣教師の宗教的情熱がなんであるのか。信仰の問題。しかし、裏切り続けるキチジローの存在。何度も裏切りながらも、キリストの許しを願うキチジロー。そして、井上奉行という権力存在。人間というものを、極めて冷徹に、鋭い分析力をもって観察している。物として扱われる人間存在。ゆるぎない権力者。この映画は何か結論や、主張がある訳ではない。見るものに、ここに問題があると指し示している。人間というものがどのようなものであるかを、結論や、安易な解釈を示さず、疑問として提示している。一度見て、何かが分かったというより、何か大きな問題に出会ったという感触である。壁が立ちはだかった。先日、「いつも何度でも」の詩について書いた。ここに有る死というものの感触についてである。この詩も何かを示している訳ではない。死という全く不明なものの周辺を語っている。キリシタンにおけるパライソのこと。一向宗の浄土のこと。こうした天国を実在として感じさせることを可能とするのが宗教なのであろう。
私は曹洞宗の僧侶であるが、禅宗においては、全く来世というものはない。輪廻もなく、今があるだけである。これは私の学んだ解釈なのかもしれないが、私が出会った素晴らしい僧侶の方々はそういう人であった。宗教として、また仏教としても特殊なものなのかもしれない。つまり、道元禅師のことも、お釈迦さまも、ためらいなく踏み絵をするであろう。それで、信者の命とが救われるのであれば、何のためらいもなく、マリア像に唾を吐くだろう。それゆえに踏み絵のような発想が生まれない宗教である。しかし、果たして江戸時代の初期の禅宗はどういうものであったのだろうか。武士階級の信者が多かったとされている。映画に出てくる仏教寺院は天台宗の寺のような感じだった。僧侶が、実に曖昧なものとして表現されている。江戸時代の宗教の姿。権力と結託し権力化する、迷いすらない仏教。では神社はどのようにキリスト教徒向き合ったのだろう。
平戸には何度も絵を描きに行った。島原では2度亡霊に出会うほどひたすら絵を描いた。殉教の問題よりも、隠れキリシタンの明治になっての破門のことである。明治の開国。300年隠れキリシタンとして信仰を継続していたことを、ヨーロッパ人は歓迎の気持ちで迎える。そして、すぐ長崎にローマ法王が使節を派遣する。ところが、そこにあったものは、キリスト教ではなかった。そして破門がなされる。その時の、キリシタン信者の驚きと戸惑い。このことが頭にこびりついていた。つまり、日本という泥沼の中で、絶え絶えとなりながら、生きながらえていたキリシタンはキリスト教徒ではなくなっていたのだ。いや初めからキリスト教は存在しなかったのだ。日本という泥沼に根づいたものは、キリスト教であったのかどうか。キリスト教自身が変化をしているのか。長崎で信仰というもの余韻のようなものを描こうとした。少しも絵に描けることはなかったのだが、眼には何か違ったものが見えた。この何かを何かのまま描けないかと、描いた。この映画では暗い霧の海として、その空気を描いていた。しかし、私には晴れ渡る空と海にむしろ、悲しい歴史が見えた。