鶴来の町と白山比咩神社
白山比咩神社の本殿 落ち葉をブロアーで吹き払っていた。騒がしい掃除だった。
参道 山の斜面を切って本殿まで続く上り坂である。
せっかく松任で展覧会をしているのだから、鶴来の街まで行ってみた。鶴来は昔、白山に登るときや、獅子吼高原のスキーをするために来た町である。友人が鶴来の病院に勤めていた。朝から、冬の北陸らしい垂れこめた空になった日だ。松任の駅前から、7時20分発のバスに乗った。バスは通学に使われているようで、高校生は駅前から乗車した。途中から中学生が乗り込んできた。と言っても小さなコミュニティーバスで10人も乗ればいっぱいという事で、途中乗車の中学生は立ったままだった。全員途中で降りてしまい、鶴来の駅で降りた時には、一人だった。冷たい雨の中バスを下車したのだが、傘をさして、雨の中を白山神社まで歩いた。街を歩く目的として白山比咩神社まで歩くことにしただけである。白山神社の奥の院の方は何度も言った。つまり、白山の頂上にある祠が、奥の院であり、白山登山は学生の頃10回はしたと思う。
そのふもとの鶴来にある神社が、本殿という事なのだろう。何十回と前を通りながら、素通りしていた。一度は本殿まで行ってみようというだけなのだが。その参道の落ち葉道は、美しいものだった。雨に濡れ、落ち葉が敷き詰められていた。歩いている内に気持ちが清々としてきた。登り詰めたあたりに大きな杉の木がある。姫神社の老杉と書かれていた。しめ縄が張られている。私には神社よりこの老木の方が、神々しさを感ずるようだ。1000年杉となると、その圧倒的な生命の漂う姿は別格である。人間が作る、本殿などたかが知れていて厳かな気にはなれない。その意味では途中にある滝の姿にも、頭を下げ拝みたいような感情が湧いてきた。参道をとぼとぼ歩いている内に十分満足してしまい、本殿は見ただけでそのまま戻ることになった。白山がご神体という事だから、本殿は仮の姿に過ぎないと解釈すればいいのだろう。全国にある白山神社の元になる神社にしては、意外にあっさりしていた。
鶴来に行く電車のなか。
白山下まで行っていた廃線になった線路
私の学生の頃は白山下というところまで電車は行った。そこでバスに乗り換えて一ノ瀬というところまでバスで行くか、さらに別当出会いというところまでバスで行ったと思う。今は途中にダムが出来て、白峰あたりははずいぶん変わっしまったと思う。街を歩いていると、もう45年前のことなのに、少しも昔のような気がしない。鶴来の町はそう変わった感じがしなかった。確かに、建物は新しい大きな建物があちこちにできて、先端技術大学院大学というものがあった。しかし、街の空気は懐かしいままで、暗く重い空と冷たい雨のお陰で昔を思い出すことができた。ただ白山神社に行って、そのまま戻っただけなのだが、何かやみくもに歩きたくなるところがある。