石川展が終わりました。

   

水彩人石川展が終わった。昨夜遅く、家に帰ったのだが、やはり朝早く目が覚めた。心底面白かった。自分の絵の方角が見えた、展覧会だった。そうではないか。自分の絵の問題点に気づけた展覧会だった。無私になるという事は、そう簡単なことではない。自分をただ忘れて描いた絵が、自分の学んできた絵画法が現れる。これは今までの、少しでも良い絵を描こうという生き方が問題だったのだ。このことに気づけたことは有難いことだ。1000人近い入場者がありました。地元の同人の北野さん、堀田さん二人の活動の反映だと思った。水彩人は小さな新しい組織である。水彩画に興味ある人が見に来てくれたのだと思う。福井や富山からも来てくれる人がいた。画集や絵葉書の売れ行きも良くて、水彩画に興味ある方が増えていることも痛感した。講習会も定員の25名を超えて27名で行われた。ギャラーリトークも30名位の方がおられたかと思う。とても熱心な集まりになった。白山市「うるわし」で初めての十回展水彩人石川展が行えたことは、水彩人にとって良い経験になったと思う。私にとってもかけがえのない機会になった。

金沢で自分の方向が決まった。そして、45年進んできて、また石川県で展覧会をやれたという事が、不思議なようで巡りあわせを感じた。しかも、隣に中川一政美術館があり、充分にその絵を見ることができたという事も意味あるような気がした。水彩人の誰もが、中川一政氏の晩年の絵のすごさに刺激を受けたのではないだろうか。97歳まで生きることはとても難しいことだが、一年生きると一年絵が深まり、自由になってゆくという、生き方に学びたいと思う。もし、80歳で亡くなられてしまえば、梅原龍三郎氏と同レベルの絵かきで終わっただろう。それでも日本の洋画の10指に入ると思うが、90代の絵によって、日本の絵画史に残る作家になった。そう、雪舟、宗達と並び称されても不思議はない画家だと思う。まあ、そういう事は別としても、私絵画の始祖であることは確かだ。他人の評価がどれほど高くとも、それは他信であって、自信にはならないと書いて居る。

一日良く働いたものが、良い眠りにつくように、良く生きたものが、良い死はある。こう話している。良く生きようとしただけなのだろう。精一杯生きるという事で、私の自由を絵として示すことになった。私には幸い、その自由な生命の息吹を、絵として残してもらえたという事になる。今より、明日は、さらに深く生きる。そういう生き方、眼前の絵として示している。迷えばあの絵の前に立てばいい訳だ。私絵画は自己新の絵画だ。私のレベルで在ればそれでいい、ただし、今日より明日より深い絵にならなくてはならない。それが出来ないのであれば、充分に生きていないという事になる。本当に生きていないという事になる。福浦のシリーズ、駒ケ岳のシリーズを見ていて、それは苦しい絵画だと見えていた。千日回峰行のような絵画だと思っていた。ところがそうでなく、楽しかったのだ。楽しいままに描き続けていたことが分かった。

私は求道的な道を歩んでいる訳ではない。朝起きたら今日何がやりたいかなというような、その日その日の楽しみに生きたい。田んぼを見に行きたいな。緑肥はどうなっているだろう。冬水田んぼのその後はどうだろう。篠窪の畑はどうなっているだろう。下田の庭も見てみたい。その朝思ったことにその一日が費やせるように、その日その日一番やりたいことがやれるようにして来ただけだ。養鶏を始めた友人が、笹村さんよくこんな大変なことを続けて居ましたね。と先日話していた。しかし、鶏を飼うのが面白くて、面白くて、本当のところは今でも鶏に囲まれていたいというだけだ。それでも10羽の鶏がいてくれるから、実に楽しい。それだけのことの毎日である。そうした自分のやりたいことをやりつくす、それが絵を描くという事に繋がり、その自分の見ている世界を絵として道しるべにしながら歩みたいという事で来た。それにしても、絵を描く道はまた見えなくなったことでもある。

 

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