少数派の自覚
これは実は選挙前に書き始めた。与党が3分の2を取るに違いない。(その通りになってしまった。)全く日本人はどうかしてしまったのだ。「悪いものと、もっと悪いものと較べろと言われても無理だ。」フセインとその後のアメリカとを比べてどう思うかと質問をしたときの、イラクから来た人たちの答えだった。民主党政権とアベ政権との比較はそういう比較であった。ダメだったものと、これからもっとダメにするものとを較べても空しいという事か。もちろん政治が悪いというより、日本が世界の流れに飲み込まれている。せっかくのチャンスを棒に振った民主党が民進党を名のったとしても、2度目はない。日本崩壊に向かうアベ政権では、尚更お先真っ暗である。何とか悲惨なことにならないでほしい。戦争に巻き込まれない程度の期待はしてしまう。たぶん私が生きている間に良い政治など期待できない。悪いなりに悲惨なことだけ起きなければ仕方がない。少数派として生き抜く手立てを見つけようと思う。
日本を諦める訳にはいかない。それではどうしたらいいか、3%の少数集団に期待する。どのような変わった考え方であれ、3%の仲間はいる。100人が一学年なら、3人はいる。東京の高校だったのだが、3人は農業に進んだ。今の時代さらに環境は悪いが、やはり3%の人は自給的に暮らしてみようかなど思っているのではないか。この3%で力を合わせることではないだろうか。97%を一時忘れているしかない。ほんの少数の3%の人間で、協力してこれからますますひどい状態になるだろう世間を、しのいでゆくほかない。私にとってどんな3%かと言えば、農のある暮らしに関心のある3%である。暮らしの中に農的なものを取り入れられる人だ。例えばベランダの鉢一つでも大切だと思う人との連帯。植物の成長。育てた野菜を食べてみる。そのことを暮らしの感覚で奥深いところで感じられるかどうかだ。そこには人間らしい文化に繋がる何ものかがある。そういうところから、小さな緩やかなつながりを保って、良く生きたいと思う。
少数派は多数派から異端とされるだろう。しかし、インターネットの登場で少数派も互いを確認ができる。当然少数派のさらに少数派だから目立たないが、それなりにいるらしいことは薄々感じられる。それもあってこのブログを続けている面もある。3%の中の3%ぐらいがインターネットに興味を持つのだとしたら、日本人の中に10万人くらいの人は自分と同類である。10万人いれば心強いものだ。上手くつながればもう孤立した潰される少数派とは言えない。新しい連帯、繋がり方である。八重山の文化は千人単位で生まれている。この偏屈で個性的な人間のつながりは、厄介なものではダメだ。時間を取られることもダメだ。ほとんど黙っているはずだ。でも確かに存在するのだから、いざという時に頼りになるはずである。かすかな連帯だけでも感じ合えるようにしたい。
このブログでも嫌がらせとしか思えない、コメントが続いた。コメントで嫌な気分になるので、残念ながらいよいよコメント拒否にした。ご意見ご用のある人は冒頭に表示してあるメールでお願いする。相当にひどいコメントだと思っても必ず連絡をします。意見が違えば腹が立つのは誰しも当然のことだ。私は櫻井よしこ氏の発言を読むと腹が立つ。然し無名で批判などしない。名前を出して批判をするか。無視するかである。しかし、自分の名前を出さないで、批判的発言をする人とはかかわりたくない。たぶん、自分の批判が他の人にも見えなくては面白くもないだろう。自分がいかに賢く批判が出来るかを見せびらかしたいという事に動機があるとおもう。それを隠れてやるという気持ちには賛同できない。しかし、日本はそういう人が多数派の世の中になってしまったのだ。