江戸時代という自給世界
江戸時代を飢饉と農民一揆の時代として教えられた中学の歴史を、おかしいことだと思ったのは、チャボを飼い、金魚を飼ったからだ。こんな素晴らしいものを作り出した庶民に余裕がなかったわけがないと思った。江戸時代をひどい圧政の時代としなければならなかったのは、明治帝国主義の富国強兵推進である。江戸時代より農民は苦しいことにしなければならなかった。急激な帝国主義的な国家体制の強化をした明治時代はとことん農民は搾りあげた。江戸時代どころではない飢饉の頻発。明治維新で日本は良くなったのだという教育が無理やり行われた。江戸時代の自給の循環社会を悪い時代として、消し去ろうとしたのだ。脱亜入欧の思想形成も日本の近代化という流れを強調するあまり、伝統的日本の文化を軽んずる傾向を作った。江戸時代の農民は余裕のある暮らしをしていた期間の方がはるかに長い。そんなことは一日1時間の自給生活をすればわかることだ。年貢は明治の税金より低かった。
そして、極めて高い文化的な社会の中に暮らしていた。それは現代社会よりはるかに高いものだ。八重山民謡を聞いてみればわかる。むしろ日本の社会は明治以降、西洋文明を受け入れることに躍起となった。日本人であることの価値を見失ってきた。世界でもまれにみる、自然と融合した里地里山文化を、土着的自然信仰を残しながら、同時に科学的論理性を持ち合わせた社会を作り出していたのだ。近代化された世界のはずの現代は、企業の利益主義によって能力競争の正義に席巻されている。人間として大切にしなければならない文化を忘れ去る危機に陥った。人類は勝者と敗者に分かれ、格差を広げ始めている。もう一度この能力主義を見直すためには、江戸時代の人間らしい暮らしを思い返し、探ってみるほかない。それは、自給的生活を30年近く模索してきたものとして、生活の実際から主張したいところである。人間が幸せに生きるためには、人を蹴落とさなくとも可能だという事だ。
TPPによって、アメリカ経済の支配下に日本は置かれることになるだろう。企業立って、日本人が居なくなる。能力主義の正義は強いものの正義だ。国ごとに同じ条件でないにもかかわらず、それを人間の能力の違いにしてしまう。TPPは企業活動にとって都合の良い考え方なのだ。EUからのイギリスの離脱を見てみればわかる。EUという仕組みはドイツという有能な国が独り勝ちする結果になっている。ドイツが移民労働者を有効に取り入れられるのは、東西の合併の経験が生きている。それだけの労働市場が準備されているという事だ。アベ政権は失業率の改善を手柄のように主張しているが、笑い話のようだ。新規就労者数より、実質の退職者の方が多いい時代になった。むしろ労働人口をどのように増加させるかが課題なのだ。今後移民労働者を入れなければ、日本の企業が外に出てゆくと主張することになる。そういう基盤がTPPによって作られるという事だ。そして、日本がアメリカの支配下で、そこそこの立場は与えられるだろうが、すべての分野でアメリカの一人勝ちになってゆくはずだ。
日本の財政破綻はすでに手の打ちようのないところまで来ている。企業の活動を後押しするための公共投資をし過ぎたのだ。土建業の活性化を公共投資として、労働力不足を招いた。公共事業を景気対策として、道路や鉄道や橋や港湾の整備をするのは、企業活動の支援でもある。その恩恵は大企業は一番に受けている。当然日本の法人税は社会基盤が整うまで、もっと高くせざる得ないのだ。植民地支配で社会資本を充実した国とは違うのだ。それが嫌な企業は日本から出て行けばいい。日本に来て活動したいという企業でやればいい。外国との比較ではなく、日本という国家として、自給的な成り立ちを第一義として考える必要がある。このまま日本文化を失い続けるのであれば、日本国は一体何を守ろうとしているのか。現代の科学的成果を上手く受け入れながら、文化国家としての独立国家を作れないものか。