石垣島では稲刈りが
石垣島では日本一早い稲刈りが始まっている。本当はすでに、西表島では稲刈りが終わっているようだ。舟原の田んぼで田植えが始まったころに、稲刈りになるのだから石垣は南にはるか遠い。今年は沖縄で雪が降るというような寒い日が続いて、種まきはだいぶ遅れたようだ。やっと田んぼの始まりっても、日照不足が続き生育が例年より遅いと聞いていた。台風が来る前に一度目の稲刈りが出来るように栽培している。6月に入ると石垣は台風の通過がある。最近の台風では、稲が根こそぎ引き抜かれるというから、そのすざましさは想像を絶する。厳しい天候条件の中、やっと収穫までこぎつけた喜びには大きなものがあるに違いない。石垣の稲作の総面積はJA石垣によると、田んぼの面積は280ha。生産量は750トン余りとされている。これは、1万人分のお米が収穫できるという事だが、実は2期作だから、2万のお米が自給できる計算になる。
人口は5万人近いから、今の倍の田んぼがあったといえるのではないだろうか。島のあちこちに元は田んぼだったのではないかというところが見られる。面積と収穫量から計算してみると、4,5俵くらいになる。これは全国平均から見ると相当の低い数字となる。何か数字がおかしいのか、それくらいで正しいものなのか。私が見てきた新川地区の様子では7俵はあるように見えたのだが。確かに長野当たりのあの緻密な田んぼに比べると、粗放的というかおおらかな緩い田んぼではある。それがまた魅力なのだが、雑草の激しさや、虫の発生など亜熱帯的な事情もあるのかもしれない。それにしても、これだけの田んぼが残っていることが素晴らしいことだ。日本の農業政策から考えれば、すべてが転作されていても不思議ではない。換金作物である、サトウキビと肉牛が奨励され、沖縄本島では田圃はなくなった。そのサトウキビがTPPで危うくなっている。
その環境の中でもかなりの方々が続けている姿は、石垣の人たちの気風の強さというものを感じる。経済だけで動かない生き方というものこそ大切なものだ。都会に暮らす日本人は拝金主義に陥っていることも気づきにくい。田んぼをやってみると、その生産費を計算するような気持に成れなくなる。作って食べるという中に、人間の本来の姿があるように感ずるような気がする。お金を稼ぐという事とは違う充実感がある。それは登山をしているような気分ではないだろうか。ただ歩いている中で、自問自答している心がある。本当の自分に出会うような気分になる。ただ山を走り回る修験道もある。人間は自分の生きるという事を見つめるとき、お金を稼ぐ喜びというものは、少し人間の本性から外れたものであることに気づくかもしれない。
労働というものの価値は、賃金の代償にある訳でない。一度きりの生きるという自分の根底にたどり着くために働いている。在りたい自分にたどり着くために、自分の食べるものを作るという道も大切なものである。そうした本当に暮らして生きている人間が八重山に残っている気がする。八重山の歴史が強い人間を作り出したのだろう。そうした人に出会える喜びが石垣にはある。石垣の田んぼを見ているとそういうお金で動かされない人間の強さを感ずる。絵でそういうものを描く事が出来ればと思うのだが。まだできない。稲刈りが終わる前に、小浜島の田んぼを見たいものだ。小浜島の田んぼは日本の稲作の原型の姿を残している。西表にはまだ行ったことがないが、西表の田んぼではすでに、二期目の田植えが始まっているのだろうか。その準備というものも見てみたいものだ。