小田原市沼代を描く

   

沼代の谷間を描いて居る。

最近4日間同じ場所で、毎日1枚づつ絵を描いた。大体のこところ、いつもの私の絵の描き方である。魅かれると感じた場所で繰り返し描く。ここ何年か、大井町の篠窪というところで描いてきたのだが、夏は見通しがなくなり、描きにくくなる。そこで場所はないかと思い、見つけた所である。以前からそばの沼代園という養護施設に養鶏の手伝いで出かけていたので、時々通る道からである。道から谷の眺めがいい。最近田んぼに水が入った。水が入ったら、風景が一変して面白くなった。田植えが終わるまでのしばらくのことではないだろうか。一番上が畑で小屋などがある。そこから田んぼが続き、放棄された田んぼになる。その先には林があり、集落に続く。集落の奥は小高い二宮の丘陵が続いてゆく。一番高いところが、136メートル二宮の駅のそばの吾妻山公園である。写真は雨の日で霧の中である。雨の日はいいものだ。それほどの山の中ではないのだが、里山風景が残っている。

一枚目

田んぼを中央に描く。一番描きたいものだから中央になるのだろう。構図というものは考えたことはないので、その場所をただそのまま描き始める。どんな絵にしようとかいうことは考えないが、見えている里山風景を描くことは決まっている。何とか目の前に見えている状況を画面に持ってくる。下図を描くとか、デッサンを取るというようなことはしない。頭を使うようなことをすると、見えているものから離れてゆく気がする。思いついたままにパレットで色を作り、始める。何処から何をしようとしているのかもよくわからない。頭で考えるという事は全くない。でたらめに塗るという訳でもない。見えている風景の中にある空間の動きのようなものを追っていることが多いい。あちこちに色を置きながら、だんだん形を移している。描くという事に成りきるには頭で考えたらだめなようだ。どのような結果になるのかは分からない。始めてみると、絵を進めるなかで習慣化してきた調子で描いている。と言って、上から下に絵描き進めていたり、あちこち適当に色が広がっていったりする。それに任せている。どうすれば今見えているものが画面の方に、絵の方に表れてこないか、偶然を待っているようなものである。

2枚目

朝から始めて、夕方まで描いていることもある。2日目になると最初とは違ったものが見える。2時間ぐらいで終わりになることもある。嫌になれば、すぐ家に帰る。車の中には、大抵のものはそろっている。食べ物、飲み物、昼寝の布団。タブレット、もちろん絵の道具も何でも積んである。描きたい間は描いている。絵を描きに出るとなれば、家の方のことや、田んぼや、畑はすべて忘れてしまう状態なので、朝の内にすべて終わらせてから出かける。急に出掛けたくなるので、予定とかはない。帰りには風呂屋に寄って帰ることが多いいので、風呂の道具も積んである。こうして描いているときのことを思い出そうとしても、呆然としてただ描いて居るだけで、その時の気持ちのようなものはほとんど流れ去っていてとりとめがないだけである。一生懸命であるとか、楽しんでという事でもない。ただ絵を描いて居る道具になったような状態である。座禅をしているときの状態に一番近い気がする。足が痛いとか、我慢しているとか、修行だとかいう意識は全くない。

3枚目

描いた4枚の絵は今のところ描いたままである。4枚目が一番色が塗られていない。塗り残しが沢山ある。何故なのか、日に日に塗らなくなった。4日間4枚の絵は持っていって描いて居るのだが、結局のところ、一日一枚づつで、今回は現場で続きを描くという事はしていない。毎日画室の壁に並べてある。何か気づいたら、現場に持っていって描いて見たいと思っている。この描き継ぐという事が難しい。絵を描き継ぐという事は全、写生をしている時とは違った作業になる。気付いたことを描くのだが、その時に絵の欠点を直すという事になったら、やらないことにしている。描き継ぐ時は新しい発見があった時である。こういう事だったかという事がわかって、どんどん進んでゆくこともある。そこで止まってしまって、何か月も置いてあることもある。だめだと思って、保存の引き出しにしまってしまうことが多いい。そのうちまた出してみて描き継ぐこともある。もしかして出来たという気持ちになったら額に入れて、ギャラリーに飾る。

4枚目

 - Peace Cafe