人工頭脳で絵は変わる。
囲碁でも、将棋でも、人工頭脳が人間を勝った。ゲームに置いてはコンピューターに人間は勝てないことが証明されつつある。遠からず、あらゆる分野で人間の頭脳を機械は上回ることであろう。コンピューターで政治が行われるようになったら、私の考える政治に近いのではないだろうか。コンピューターの意見を参考に政治を行う時代は近いことだろう。絵を描く事を考えれば、人間よりはるかに巧みに描くことは目に見えている。どれほどの材質感であれ、どれほどの堅牢度であれ、人間が及ぶものではない。再現性においては、モナリザと同じものを5枚作ってくださいという事が、可能な時代が近づいている。これは40年前から主張していたことだ。その時は多くの絵かき仲間に馬鹿にされ相手にもされなかったが。そのつもりで絵を描かなければならないと、主張してきた。そんなことはどうでもいいと機械で出来るような仕事をしている愚かさが商品絵画にはある。
機械が人間を超えるという現実から、人間が生きるという事がどういう事なのか、人間が絵を描くという意味はどういうことかを考える必要があった。そして私絵画というものにたどり着いた。絵画の社会性は失われた時代。商業絵画の側面から考えれば、絵画の骨董的価値や希少価値はなくなるという事である。福山雅治コーディネート絵画が登場する。モナリザが無限に存在しうる時代を想定して、自分が描くという事を考えれば、自分の個別性など社会の中では無意味である。絵を描くという行為の意味は自分にとってどういうものであるかだけが、意味として残る。出来上がった絵の存在よりも、描くという行為に絵画の意味が移行してゆく。移行しながら、絵を描くという行為はより深い、重要なものになるだろうと考える。社会においては全くの無意味な行為であるがゆえに、個人に置いては意味を持つはずだ。つまり、座禅である。無意味がゆえに価値がある。商業絵画の時代においては、私絵画の意味はより重要になると考えてきた。
骨董価値としてモナリザの1点である意味はあるだろうが、肉眼で判別できないものが、いくらでも作られるとなれば、絵画から得られる鑑賞の意味は、その本質が変わってゆくだろう。自分が生きている間にそうなるだろうと考えていたが、やはりそうだったと実感する。結果として、描くという行為の純化である。絵を描くことの意味は、商品を描くという事と峻別して、自分の為に描くという事が重要になってゆく。絵画は自分の為だけに描くという事に厳密化して考えてみる必要が出てきたのだ。自分が見ているという事がどいう事なのだろうか。座禅に置いては視覚は、半眼という。見えているが見ていない状態を意味する。目に映ってはいるが、意識として見てはいない状態。凝視するという事と対極の視覚の在り方である。絵を描くという事は、半眼と凝視の繰り返しである。夢と現とが行き交っている。自分の心の移ろいに従う。心が見たいと思えば見る。絵空事でありたければ、幻想に従う。こだわることを含めて、心に従うという事である。
絵を描いている充実という事である。田んぼをやる充実もある。しかし、それは食べることができるという、打算的充実である。絵を描くという事は自分の心のままに生きたという時間を持つだけの、無意味の充実である。この無意味の充実こそ、最高の充実である。ああ生きたと、生きて自分の仕事をしたという喜びがある。私は座禅に生きることが出来なかった、即物的人間である。無駄なことは出来ない普通の人間である。それが絵を描くという、現実の行為をしながら、その行為が全くの無駄であるという意識に至ることができた気がしている。無駄に生きることに耐えられるようになった。里山風景を描く。それを残しておきたいという現実の価値と、そんなものは何の意味もないだろうという、明らかな意識もある。そのないまぜの中で、ただ描くという他の時間にはない充実に至ることができた。