震災5年
あの日から5年が経つ。あの日は銀座の一枚の絵の水彩人展のオープニングの日だった。大変なことが起きたという事はわかったが、状況が把握できないまま、一晩東京にいた。状況把握不能者になった。帰宅困難者ではなかった。どこへ向かっているのか黙々と歩いている人の群れとすれ違った。あてのない人の群れは何処にたどり着いたのだろうか。自分たちが向かうところとは大半が逆方向だった。暗い海まで来たときに、津波があったという事がやっとわかった。しかし、東北で大津波があったという事は知らなかった。もう半日以上経っているのだから、いまさら津波はないだろうという事でさらに歩き続けた。翌日家に戻れてホッとしたという程度ではない東北の事態を知った。あの日から5年が経った。あの日のことは思い出したくない。忘れることは良くないことだが、忘れたいことだ。福島原発の事故だ。私もこの後小田原で被災することになる。
福島の退去地区から避難してきた、生き物たちのことをまず書いておく。最初にあずかった瀕死だった犬の空は1か月ほどで死んだ。可哀想な犬だった。南相馬から来たセントバーナードの福ちゃんは被災時に1歳とみられたので、現在6歳になった。元気に愉快に暮らしている。なんとなくお世話になっているという空気を今でも残している。わがままにならないので助かる事は助かるが、哀れな感じがして、どうしても福島のことを考えてしまう。飯館から来た、猫のるるとララは相変らず野生の自由猫である。思わぬような遠くで顔を合わせてびっくりする。顔を見るとごろにゃんしてくるので、飼い主という意識はあるようだ。こっちは小さい時に来た為なのか、猫らしく気ままでいい。時々野鳥を捕まえて来て食べている。5歳になって以前より甘えるようになっている。預かった鶏はもう一羽もいない。卵もだんだん産まなくなり、順次食べてしまった。
小田原でも農産物が出荷停止になるほどの放射能汚染を受ける。東京電力の社長は被害者への補償は万全と国会で先日もしゃべっていたが、我々の廃棄処分にさせられた農産物の被害要求には一切補償をしない。よくもぬけぬけと、のうのうとやっていられるものである。今年になって友人から小田原のお米は放射能汚染されているから食べない方が良いと言われた。いまだ何も変わっていない。あの時飛び交った放射能デマはいまだ増幅され、社会に漂っている。放射能リスクに対して年間1ミリシーベルトを科学的根拠なく決めた。と復興大臣が発言した。こうした発言が風評を増大させるのだ。安全も危険も、線を引くことができない。農産物の出荷停止の補償を復興大臣が責任を持てやってくれと言いたい。決めた基準でやったのが政府であろう。放射能の安全基準は、農薬の安全基準と同じで、受ける側の判断である。安全と言われる遺伝子組み換え作物でも嫌だという権利はある。コーデックス委員会の年間一ミリシーベルトのラインを基準にした。それを大切にしなければすべてが、おかしくなる。
あの日から自分の腹の奥に、絶望の重しのようなものが居座っている。人類は競争の果てに死に絶えるという事がなぜかある。原子力災害は津波とは違う。人間が欲で、作ってしまった人為的事故だ。人間の文明の向かう先が狂った。人間は足るを知るという事ができない。競争しなくてはいられない人間の文明の限界。人間は何度も滅びを繰り返さない限り、気づき、諦め、明らめることができないのだろう。人がせいぜい100年という間生きるという事を十分に味わう意味がどこにあるかである。おいしいものを食べるという事が、豊さの一つとされている。何万円もする料亭の食事を食べても、家にあるつつましいものを食べても、一食である。どちらもおいしく食べることは出来る。私には自分で作った自給の食事が最高のものだ。最高を求めて歩んでいる内にここに至った。3月11日以来、文明の今後のことを思わない日がない。